アナーキー、人目を気にしてどうなるのか 甲

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この文章はFEECO Vol.4に収録されているものの転載です。

何事も疑う癖があると、何を信じていいかもわからなくなる。信仰の話ではなく、日々の選択の話だ。過去の勤め先では用事を頼まれるごとに「出来ることしか出来ないと思いますが・・・」と口にしていたため、怠惰な人間として格付けされていた。本当にできることしかできないのか、単にやる気がないのか、自分でもよくわからないのが本音であった。結果としては仕事の質が低いのでクビになったり、自分からやめたりする。できることさえできなかったのだ。気がついたらこうなっていた。メッキが剥がれることを考慮すれば、短期の仕事が一番後腐れがなくてよい。こうして、その日暮らしの生活を10年近く続けてきたところ、今のところはもうこの道しかないと考えている。しかし、間違っても「これで良かった」と言うつもりはないし、他人にこれがノー・オルタナティヴだと理解してもらう気もない。現実にただ密着して生きているだけだ。常に迷って、イライラして、混乱している。何かをするためにはこの3つが必要なのだ。元キャバレー・ヴォルテール(英国のロッキン・ダダイスト・グループ)のステファン・マリンダーは過去に「パラノイアでいることは精神的に健康だ」と話した。キャブスのメンバーはマリファナや興奮剤漬けだったので、単にそれに起因した意見に過ぎないと思う一方で、実際に彼らがパラノイア的態度をもって現実と接していたことを考えるだけで充分だった。外から飛んでくる力、規模や属性ごとに異なれど群への加担を要求してくることへの警戒。アナーキーである。歳を重ねるにつれて、自分の定義するアナーキーが内省的に、自己完結的な意味を持ってきた。最初に述べたように、気がついたらこうなっていたとこもあるので、「歳を重ねるにつれて」と言いながらも、いつからこう考えだしたかはわかってない。大層に「アナキズム」と呼ばないのは、他者と共有できないプライベートな感情という意味合いが強いからだ。他者と共存できなければ自分もないのだが、ある一線を越えてまで繋がりたいとは思わない。出来る限り線の内側にいながら、他と共有できない部分を大事にして生きていきたい。そんな生き方をアナーキーと呼ぶことにしている。

突然音楽。ジョン・ケージ、クリスチャン・ウルフ、アール・ブラウン、モートン・フェルドマン、一柳彗の楽曲を収録した4枚組LP『Music Before Revolution』(1972)のうち一枚は、一柳を除いた面々による会話(conversation)と議論(discussion)をそれぞれ録音している。議論パートはフェルドマン、ブラウン、そしてヨーロッパにおけるケージの評価確立に貢献した音楽批評家ハインツ=クラウス・メツガーによって展開され、主に(当時の)音楽が伴う政治性、音楽(芸術)の作り手と外の世界との関係性についてである。この世界は意味なく存在しているが、その中で作られる芸術は「この世界に内在する」何かを必然的に意味している、という仮説をメツガーが投げこみ、彼はそのまま「世界は理解されるためにあるのではないが、芸術は理解されるために創られる」と続ける。ブラウンは「理解されることよりも、そこで議論が行われること自体が世界を変えていくのだ」と認識論的な答えを返す。フェルドマンはブラウン寄りではあるが、英国ロマン派の詩人バイロン卿の「誰が説明の内容を説明するのか?」を引用し、世界との繋がりそれ自体を気に留めないように務めている(少なくともこの議論が行なわれた当時は)。知られ、受け止められることを前提とした関係性に対するフェルドマンのナイーヴな反応(同議論内で彼はローリング・ストーンズのことを「ファシズム的」と形容し、ポピュラー文化としてのロックの拡張に警戒している)は、しかし、この時点での彼の名声と立場からして矛盾している。私はこれを自己愛にも似た偏屈と呼ばず、自分だけの防空壕を作るような孤独=アナーキーと呼びたい。自己矛盾を捨てずに大事に育てること。 (※「乙」はFEECO vol.4に収録されている。よかったら買って、鼻で笑ってやってください。論題になっている議論はこちらから。)


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(22.3/26)