明石政紀さんを偲ぶ

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明石政紀さんが先日亡くなられたとの報せがあった。8月末から体調を崩されていたとのことだ。最後にお会いしたのは2016年の秋頃。初めてベルリンを訪れた時に羽田明子さんたちと一緒にノーレンドルフプラッツのカフェバーで酒を呑んだ。その後もメールでベルリンの観光地というか、アーティストゆかりのスポットを教えてもらったりしていた。お礼ができないままのお別れとなってしまったことが心苦しい。
人づてに「ドイツから帰国して青梅に身を移す」という噂は聞いていた。青梅といえば私の地元というか、まあ育ちの地である。市内のどのあたりに引っ越すかまでは存じなかったのだが、かの地についてのお話も一度しておきたかったと今になって悔いるばかりである。

明石さんと初めて会話をしたのも2016年のことで、アオツキ書房にて開かれたノイエ・ドイチェ・ヴェレ関連のトークショーだった。確か終演後に『NEWSWAVE』誌に書いた記事のことについて尋ねたはずである。概要だけで、実際に読んだことのない号のことをなぜ聞いたのか。自分でもわからない。
 著作を通してなら明石さんとは10代のころに出会っている。翻訳されたヴォルフガング・フルーアの自伝『ロボット時代』、単著なら『ドイツのロック音楽』。その後しばらくして『第三帝国と音楽』や『ベルリン・デザイン・ハンドブックはデザインの本ではない!』(訳書)などなど。特に『ドイツとロック音楽』はマニアックな音楽の特徴と歴史性を、史学的かつユーモラスに描写した不思議な本として手元に残し続けている。ファズビンダーについての論考や、Suezan Studioから出たDie Tödliche Dorisの解説などにも顕著だったが、明石さんの文章はインテリめいた文章にありがちな格調高さが、素朴さ(時にはダジャレ)で薄められることにより独特のバランスへと結びついている。芸術から得た感動を自分の物語として描くわけでもなし、かといって分析の名のもとに感動を解体するでもない。歴史学者ともいうべき客観的な視線が、まるで自分にも向けられているように、文体が絶妙な間で息を抜くのである。『ベルリン・デザイン~』訳者稿の「近所に住んでる女の子との対話」の体で展開されていく書き方は、竹田賢一氏が80年代に書いていた文章や、かつて無数の個人サイトにアップされていた会話形式のレヴューを思い出させるもので、力の抜けた文体で
混み入った背景を持つドイツの文化ひいては社会像が説明されていた。執筆と口承の二つの意味で、明石さんはドイツ文化の伝道師であった。もちろん、WAVE時代にAta Takのアーティストやザ・レジデンツを日本へ伝えた功績も忘れてはならない。
 生活においても、日本を出てから移住先のベルリンの人間として生きる(≒現地の人々と仕事をする)ところを(上で名を挙げた羽田さんともども)尊敬している。のぼせた考えだが、私も色々な意味で明石さん的なことを一つでも多く遂げていきたい、これからも。


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(22.10/25)