Sさんを偲ぶ

ツイート

33になり、年齢も中身も半端者という実情に甘えていた猛暑の下、Sさんの訃報をtwitterで目にした。それも、ある社会運動についてSさんが何かコメントしていないか検索している過程で、である。色々な考えが一瞬でよぎることって、本当にある。怠けていた自分が恥ずかしくなったが、やはり何よりもSさんの死が哀しくなった。まだ50歳と少し。長らく闘病されていたとは知っていたが、今年の5月頭に亡くなられたそうだ。

Sさんとはほぼ一方的な繋がりしかない。twitterでアカウントをフォロー(相互)していた程度のものだった。Sさんは所謂反差別運動に身を費やしていた人で、twitterで常に意見を発信していた。その思想はハードな社会主義思想だが、何よりも戦後日本やフランスを例に挙げながら運動の失速を嘆き、その反省とともに活動を続けること自体に重きを置いていた。それはすぐに世の中が変わらないことを知っているからだろう。極左と罵られているところもよく見かけたが、「極左上等」と言い張るほどには図太く、言い過ぎな形容をすれば古いタイプの活動家だった。時に他罰的とさえ呼べるほどの喧嘩っ早さもあったが、先人の言葉を借りて他人を焚き付けるような輩には持ちようのない、自分自身のロジックを確立させている人だった。浅学だった私はSさんの投稿から多くのことを知るきっかけを得たし、色々な場面で内面からこみ上げる違和感の原因を突き止める手がかりにできたことが何度もあった。
また、Sさんは芸術と日常を混同しない点でも魅力的に映った。私がデヴィット・ボウイの「安易に頭の中を見せない態度」を褒めた投稿に対して反応してくれたこともある。どうやら運動の一環として小さなサークル内でシャンソンを披露されていたこともあるようだが、そうした活動をtwitterでほのめかすことはあっても、発表することはなかった。簡単に言語化できるなら芸術にせず、日常で声に出していけということである。

基本的に一個人として発信していたSさんは、SNS特有の突発的かつ瞬間的な連帯に懐疑的であった。実際に日本各地のあちこちの座り込みに参加し続けていたこともあってか、現場の人、現実の人だからこそ即物的な反応を拒否していたのだろう。個人的には、それもSNS時代のありふれた風景に過ぎないので、必要以上に否定的にならんでいいとは思うのだが。しかし「自分が生きているうちに物事は変わらんから、マイペースでやる」と断言していたことは記憶に新しいし、私も大いに同意するところである。病床に伏したことがSさんをこうした達観に至らせたのも否定できないとは思う。

上にも書いたように、Sさんは今どき「パルチザン」なんて語を好んで使うくらいには昔かたぎの運動家だった。60年代後半の革命が実現した前進と、その後の当事者たちの後退に厳しく、日本では一貫して日本共産党を「左」の視点から批判していた。それは部落解放同盟との衝突であったり、天皇制を認めている姿勢に対するものであったが、これが中道寄り、または「昔」以降の左派から嫌われていたのは当然のことだろう。Sさんを化石として攻撃する人も少なくなかった。それはSさんの態度にも問題があったが、攻撃している連中のチンピラ具合もなかなかのものであったことを記しておきたい。名ややりとりを伏せては意味のない書き方だが、自分へのメモとして。

Sさんの諦念が一種の燃料になっている「行動」は、その土臭くも堅牢な理想に対して、とても地味で近道の不在を証明するようだった。「投票を促したところで中身が伴っていなければ、結局多数派に入れる」という指摘はもっともだし、「〇〇(総理の名前が入る)じゃなければ(右派であろうと)誰でもいい」という主張への反対も筋が通っていた。今日、リアリストとは冷笑的な態度をとる第三者を指すようになっているが、私は理想の不可能性を受け入れたうえで行動する人の意として使いたいし、使っている。
「今はそんなことを言っている場合ではない」と、戦中の日本政府のように連帯を強いる連中よりは、Sさんの方が信頼できた。潮目を読み、身近な人物となると批判せず、手段の目的化に走る連中よりも、Sさんのやり方を記憶しておきたいと思った。このように私は内実でSさんに共感している。Sさんほど喧嘩っ早くないから罵倒されたりしていないだけだ。
イデオロギーにはヒエラルキーがつきものであり、どんな形であっても政治には権威による強制がつきものである。これは仕方のないことだ。だが、私はどちらにも加担したくはない。避けられないものであっても、それを疑問に思わないような連中を見聞きすることに時間を費やしたくない。

賢い人とは死んだ人か、逃げた人だけなんじゃないか。ますます大きくなるこの気持ちとともに、Sさんを偲び、合掌した。



戻る

(21.8/7)