『灼熱』(2016)

ツイート

ヨーロッパへの関心が高まっていくうちに、自分が興味を抱く国々の共通点がわかってきた。一つは先進国のあとを追ってはいるがまだまだ経済的には貧しいこと。もう一つは戦争が陰を引いていると同時にそれを反面教師および立脚点にしていること。21世紀において後者は当たり前のことだと言われているが、それができていない国だってある。今の日本は上の条件の両方にあてはまらないが、為政の側から見れば該当するんだろう。この齟齬は傍から見たら一つのオルタナティブだとさえ思われている気がしてならない。

自分が興味を抱く国々の話に戻ると、アイルランド、ポーランド、そして最近はクロアチアやスロヴェニアなど所謂旧ユーゴスラヴィア圏のことを調べている。特に旧ユーゴは研究のために基本的な歴史を記した書籍をちまちまと読み進めているのだが、複雑な歴史を持つだけに情報を整理するだけでもかなり大変だ。そして読めば読むほど、その絡み合う「目」がどこにあるのか知りたくなる。フィクションやドキュメンタリーで何か学べるものはないかと調べたところヒットしたのが、2016年のクロアチア映画『灼熱』であった。75年生まれのダリボル・マタニッチ監督作品。クロアチア人とセルビア人の対立が根付く世界に生きる一組の男女を91年、01年、11年の3つの時系列で描く。それぞれは別個人、別のストーリーなのだが、演じる俳優は統一されており、民族間に在り続ける憎悪と愛は普遍的なものであることが強調されている。アドリア海沿いの雄大な自然が舞台となり、物語によっては悲劇が起こる場所であったり、ただの通り道として映されたりするところも同様の効果を発揮している。ここだけならば憎悪も愛も自然のサイクルの一つ、といった悪い意味での第三者目線に着地してしまうのだが、2011年のストーリーでは当事者たちがそのサイクルの中で生きていること、そしてそれを内側から変えていけることへの希望が示唆される。まさかの野外レイヴシーン~湖での遊泳(後者の演出はすべてのストーリーで登場する)はその象徴に見えた。

ちょうど最近『アイデンティティが人を殺す』という本を読んだこともあって、内容を重ねながら映画を見ていた。特に同書に出てくる「宗教が政治や社会に影響を与えたことは語られるのに、政治や社会が宗教に与えた影響は見過ごされている」というくだり。宗教を民族に差し替えると、『灼熱』は単位をよりミクロなものにして、個人単位でクロアチア・セルビア問題を映し出していると気付く。旧ユーゴ史はスロヴェニアやマケドニアなどの国々に加え、イタリアやドイツら外からの干渉も複雑に絡み合っているため、二人種間内だけの問題として考えるのは難しい。しかし、その時代を生きている若者たちにとっては過去の要因よりも、その結果の延長である現在が重要であり、だからこそやり場のない怒りが曖昧な人種(両者は同じ言語、同じ文字、同じ外見を持つ)という属性に向けられる。2011年のストーリー、一度は未遂に終わったクロアチア人とセルビア人のカップルが「やり直し」を暗示させるラストが意義あるものに感じるのはこうした背景があるからだ。人は大きなサイクルの中で生きていて、過去と現在は繋がっている。シンプルなメッセージだが、その道筋、軌道を選べるのは現在の人間だけだということが随所で表現されていた。保証がなくとも行き先があるのなら走るべきだ、と自分は受けとった。青春はどんな時代にでもある。

添え物程度の演出かもしれないが、91年のストーリーでは男の吹く音楽が抵抗の意思を、01年のウォークマン、11年の西側風エレクトロニック・ミュージック(ラジオで流れるセルビアのバンドの音楽がこちらに切り替えられる)が逃避を手助けするところにも印象深い。これを遅れてきたサマーオブラヴとみるか、現在に出てくる必要があっての現象とみるか。あー自分は後者です。

戻る

(21.5/6)