新作完成間近?『Live And Let Live』

200部ほど予定


マイペースに書いている新作だが、4月中には出したい。いい加減に出さないと他の事も出来ないので...。内容に関しては、完璧を実現するのは不可能なのでキリの良いところでマスターアップと行きたいのだが、文章のつまらなさを無駄知識で埋めようという悪癖のせいもあって、やればやるほど不安が膨れる。成長しない男です。

今回は2年ほど前に作った『Missing Sense』という本に収録しなかったパートを補完した内容となる。前回は節操なく多数の人物を入れてしまったが、今回は扱う人物が少ないので比較的読みやすくはなっていると思う。レイアウトも突貫で行なうのは止めにして、自分でも呆れるほどに多かった誤字脱字も校正で潰しておきたい。なので、以前よりはマシになっているかと...。
扱う面々は具体的に名前を出すと、デス・イン・ジューン、ボイド・ライス、ジム・サールウェル(フィータス)の三者。前者二人は特にスタンスと活動が特殊なので、音楽の面一つで整理するのは無理がある。ましてや、彼らから広げて独自の論考を見せるなんて大層な所業は自分には荷が重いため、経歴と事実に基づくバイオグラフィーが主となる。これは前回でも同様だったので、やることは変わわらないということで、作業自体はシンプルだ。
DIJやボイドはそのナチを取り入れたイメージと実際の作品群から、アンタッチャブルな存在にされているが、彼らはそうしたタブーを作品ではなく、人生そのものに取り入れることで問題を囲む箱を取り払う。その問題はどこに根を張り、我々とどれくらい距離が離れているのか。無意識に分断している日常と問題は地続きなのではないかという疑問自体をも明白にする。アートを言い訳にした横暴や、挑発で終わっている思い付きが蔓延し、触れられているようで実は更にヴェールをかぶせられていく事実もある中、自分の足で立っている彼らはそれだけで知られるべき存在だと思う。彼らほど意志の強い人間はそうおらず、その歩みとポリシーは常識や世間体を人質にとられて日々過ごしている我々には超常的にすら感じる瞬間もあるが、本当に彼らと我々の間に渡れぬ川が流れているのか、確かめてみたい。その一方で、60年代への憧憬や、俗に言うイージー・リスニング、モンドの復興など、政治とは距離を置いた(ように見える)文化への貢献も大きく、こちらの面でも世界を俯瞰できるような試みがとられている。フィータスも含めて、インダストリアルというクリシェが彼らの本来の姿を屈折させていることは明白で、定義の呪いを振り払うような役割を、わずかでも果たせたら本望です。

部数及び委託・出展先については前回と同じような規模になると思われる。即売会は・・・秋あたりに関西で出てみようと考えている。前作でイベント受けするような本ではないことはわかったのだが、2年ほど出ていないのもあって、久々に売ってみようという感じです。体力と経済の問題もあるが、機会があるならば今のうちに色々しておきたい。展望だけですが。

(16.4/10)

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