ジェネシス・P・オリッジを偲ぶ

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ジェネシス・P・オリッジが3月20日に逝去してからそろそろ1年となる。COVID-19のパンデミックが本格化したのは昨年の2月下旬ごろからだったか。振り返ってみればあっという間の1年だった。稼ぎの面でも私生活の面でも辛いことばかりで、何をする時でも頭を抱えていた。表面上は落ち着いても、2020年の喪失は尾を引いている。ジェネシスの死はそんな混沌とした年において象徴的だった・・・と後付けだが、そう考えてしまう。正確にいえば、「今はそういう時なんだ」という現実への諦念と、それを逆に燃料にして日々を生き抜く、そんな処世術としての絶望と発奮をもたらす出来事だったのではないか。
 自分がジェネシスに最も接近したのは2019年11月。『FEECO』のためにJGサールウェルへインタビューするべく、ニューヨークに滞在していた時だった。事前に晩年のジェネシスのマネージャーであったチャンドラ・シュルカとコンタクトをとり、自宅療養中のジェネシスのお見舞いへ行ける話になっていたのだ。しかし、渡米する少し前に彼女は自宅の階段から転落し、顔面に大きなけがを負ってしまったことから入院を余儀なくされた。すでに白血病によって体調も良くなかったことも大きかった。
年明けに帰国した途端にCOVID-19のパンデミックが現実的なものとなり、瞬く間にニューヨーク(というか海外諸国)が遠くなった。ジェネシスの訃報は届いたのはその矢先のことだった。

御多分にもれず、彼女のことを知ったのはスロッビング・グリッスルとしてだった。数多のディスクガイドやロック・ジャーナリズムで、所謂インダストリアル・ミュージックのパイオニアという認識が第一であった。その後、インダストリアルが一つの思想、たとえばヒッピー思想のネクストレベルを目指していたという一面を知ってからは、グループや作品単位ではなく彼女の人生の軌跡そのものが興味の対象となった。コージー・ファニ・トゥッティ自伝『アート・セックス・ミュージック』の帯に添えられていた、「インダストリアルとは生き方である」というコピーは、当然ジェネシスにも言える。インダストリアルやパンクという概念は、その時々の決断を象徴するものなのだ・・・と、ジェネシス本人についての本ではないにしろ、同書を読むことで考えが固まった。この認識はジェネシスが亡くなる日まで変わることはなく、むしろ現世を離れて完結したことで、彼女の物語はより屈強なものとなった。愛のそばに喜び、戸惑い、憎しみ。そんなメッセージがジェネシスの残した、あらゆるものから滲み出るようだ。Psychic TVのバラードはそんな感情の混沌こそがピュアなんじゃないかと囁く。じゃがたら「もうがまんできない」、遠藤賢司、分水嶺「夢のよう」にも似た感触があるな。どんな時代にせよ、愛をうたうことの意味はその時にしか存在しない。愛を説く人がどんな人であるか、そういうことを知りたくなる。疑っているんじゃなくて、会いたくなるってことだ。偉大な作家たちがそうであるように、生き方を知ってしまうと、どうしてもアルバムや絵画などの作品群に向き合うのが難しくなってしまう。独立しているからこそ作品が価値を伴うにせよ。アレイスター・クロウリーもオノ・ヨーコも三島由紀夫もみんな、そう。ともあれThee Temple Ov Psychic Youthのドキュメンタリー等、今後はジェネシス研究の機会に恵まれるだろう。なんせ話せないことも話せるようになってしまったんだから・・・。

DOMMUNEの追悼番組へのハッシュタグコメントに、飯田和敏さん(代表作が『ディシプリン』!)が「そして愛だけが残った・・・」と一言。残されたものとの対話は続くようだ。

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(21.2/24)