まるで出土した古文書を修復したような?『ファイナルファンタジータクティクス イヴァリース クロニクルズ』

ツイート

1997年6月に発売された『ファイナルファンタジータクティクス』の復刻版『ファイナルファンタジータクティクス イヴァリース クロニクルズ』(以下・『イヴァリース』)を発売日に買って、11時間ほどでクリアした。相変わらず見習い戦士のガッツ、ラムザの「さけぶ」と「エール」が強いな。
さて個人的に『イヴァリース』を復刻と呼ぶ理由は、作り直す意が強い「リメイク」とは異なり、原典の再現を一義にしているからである。オリジナルのソースコードがないとのことで、今回にあたってグラフィックやサウンドの多くは一から再現するように作られたという。
本作ではシステムを今日のために再構築し、キャラクターをフルボイス化したエンハンスドバージョンと、旧作をほぼ再現したクラシック版の二つが遊べる。クラシックはインターフェースから何から原典に忠実だが、エンハンスド同様こちらもドットが新規で打たれているのだ。つまり過去を新たに人力で作り出したといってもよい。この発想自体がAI時代の人間の取り組みとして際立つことも、意図せずして(?)『イヴァリース』の創造的価値に含まれていると思う。『ファイナルファンタジータクティクス』は舞台となるイヴァリース世界でデュライ白書と呼ばれる裏聖典、ナグ・マハディ的な文献に記されたストーリーであるからして、今回の復刻という作業(そして製作者の意思が内容に反映されて修正が加えられる点含めて)は、出自としてもふさわしいからだ。

執拗な過去への執着、たとえばブラウン管を想定したドット幅など当時の環境に対する情熱的なフェティシズムからなる復刻は、しかしパッチの跡のようにどこかがまちがっているような模様を持つ。まるで宗教画の修復作業のように精巧な『イヴァリース』は、それだけあちこちにライトをあてて原典の、あえて言うなら不完全なディテールをも照らし出していたのであった。ゲームデザインに関しては、話題になりがちなウィーグラフ~ベリアス戦(おまけに屋根の上のエルムドア戦)を越えてからは味方が強くなりすぎて、終盤のルカヴィたちが大して脅威でないところが挙げられる。さけんでためて二刀流ラムザでドーン、なのは正直『イヴァリース』でも変わらなかったし、JP稼ぎ関連もかなり楽になっている(早送りがあってロード時間もないからレベリングも快適だ)。あ、ベリアスは召喚魔法(クリュプス。CTがオリジナルよりも短いかも)を撃ってくるペースがやたら早いんで、本当にあそこだけ難しくしてやるっていう(よくわからん)意地を感じましたよ。
もう一つはなんといってもシナリオである。ディリータとオヴェリアのラストのアレの唐突さ(まあバルマウフラに迫るところを盗み聞きしてるけどさ)や、アグリアスまたはオルランドゥといった顔有りキャラのほとんどは仲間になって以降存在感がなくなる。このあたりはまさに作りかけで世に出てしまったような虫食い部分に見える。これが『ファイナルファンタジータクティクス』を中途半端に翻訳された巻物、出土したはいいが読めない部分が多すぎる古文書のようにしているのだった。『イヴァリース』の復刻はこの欠損を埋める機会でもあったが、『タクティクスオウガリボーン』(ひいてはその前の『運命の輪』)よりは、現在の(言語)感覚というパテで埋められる割合が少なかった。『タクティクスオウガリボーン』は加筆されたテキストとシナリオがほぼオリジナルを塗りつぶし(あのゲームの世界観で「シスコン」とか使っちゃいけませんよ)、ダウンロードコンテンツとはいえ「歴史にifはない」ということを残酷に伝えるあのシナリオを覆す後付けエピソードを出してきた。『イヴァリース』はここまで無理やりな補修はないだけに、受けるダメージも少なかった。あくまで自分は、だが。
少ないとはいえ現代の感覚で穴埋めされた箇所もある。今回大量に書き下ろされた戦闘中のセリフだ。顔有りキャラたちが多分に喋り、怒鳴り、レスバトルを繰り広げる。ここは『タクティクスオウガリボーン』と同じで、やたら有名な貴族アルガスと平民ディリータの会話をコピペしたような、持つ者と持たざる者の平行線だけを強調したやりとりが各所で躍りまくる。毒を散布するあの神殿騎士や、ウィーグラフの妹ミルウーダとの会話なんてまさにそう。いや、こうなるのはわかっていた。わかっていたが、『タクティクスオウガ』オリジナルを遊んだ人の二次創作感が強すぎて、やはりぎこちない。これもまた現代の解釈をもって行われる復刻、新しいレトロとするべきだろうか。それにしてもヘッダー画像のラムザなんて、キャラ変わってるというかディリータや神殿騎士たちと差異のない人間になってしまっている気がする。追加で書かれた「自分で勝ち取らない自由に何の意味がある」っていうのも、『タクティクスオウガ』でタルタロスが説く衆愚政治論とさして変わらないような…。
エンディングに関しては『タクティクスオウガ』と同じで、真相を知る者が歴史にいないものとされて放浪者になるという、手塚治虫『大洪水時代』的な結末となって幕引きとなる。これについてはプレイヤー間で解釈が巡られてきたが、10年ほど前にディレクターの松野氏がディリータやラムザたちの生存について公式の設定を(ゲームじゃなくてSNS上で)提示していた。しかし今回の『イヴァリース』はそれを補足するような追加シナリオなどはない(エンディングのムービーでなんとなく描かれているので十分といえばそうだ)。こうするならSNSで明言するのもやめておいた方がよかったんじゃないかと思わないでもないが、まあ企画が出てくる前の世界の話なので仕方ない。

そもそも『ファイナルファンタジータクティクス』が『タクティクスオウガ』の再解釈というか、都合の良い部分だけ抜粋したリライトという趣である。第1章 の時点で『タクティクスオウガ』のシナリオが持っていたコクを「思い出している」ようだ。親友との確執、加害者であることへの無自覚さ、ヒエラルキー内の ヒエラルキー。外見上は同じ特徴だが複数の国家、言語、宗教、人種の民族間の紛争が起きていた旧ユーゴをモデルにした『タクティクスオウガ』と違って、 『ファイナルファンタジータクティクス』では貴族と平民からなる階級制度にのみ焦点が絞られている(異なる民族が横並びになることなく上下の位置関係を取 りある『タクティクスオウガ』の構造は、「日本人にはあまり馴染みがない」との理由から物語として変化と帰結を見せるのが難しかったと松野氏は過去に語っ ている)。
その結果、『ファイナルファンタジータクティクス』はより古き西欧ファンタジー、光が闇を討つというティピカルな構成に従った展開になった。神々の戦いと いう過去が、聖石や聖天使という象徴を介して登場人物たちの「現在」に復活する。人の敵は人にあらず、といわんばかりに共通の敵ことルカヴィ~聖天使アル テマを用意する展開は、人同士の争いという現実に理想的ソリューションなどないということを案に認めることにも近かった(これは『タクティクスオウガ』ラ ストので過去の指導者ことドルガルア王の亡霊が出てくる展開にもいえる)。そう考えるならディリータとオヴェリアのラスト–民草を踏みにじるアルガスはじ めとする貴族たちを撤廃しようとしたディリータが、その実多くの人を利用して王座についたという事実–への皮肉、ただそれのみのエンディングに首肯してし まいそうになる。
誰かが選ばねば、誰かが手を汚さねばならない。そんなトロッコ問題的理屈を通した結果、みなが不幸になるのが『ファイナルファンタジータクティクス』。こ れが物語として本作を再読した時に抱いた感想である。かつて遊んだゲームを「再訪」するのでは、はじめて遊んだ時に受けたショックを思い出せないどころ か、その思い出に冷や水をかけるようなものだ。やり直すまでにプレイヤー側が人生で得てきた知識や経験を持ち込んで、見えなかった模様を、読み取れなかっ たメッセージをゲームという古文書から炙り出していきたいものだ。

余談。同時期に隣の開発室で作られ、半年ほど後に発売された『ゼノギアス』と似ているシチュエーションがいくつかあるのは興味深かった。ラムザの妹アルマが聖天使の依り代になるところは、エリィとミァンの関係に近い。このアルマ、なんであんなに魔法が使えるのかとか、その辺の背景が一切語られていないまま、ラスボスの攻撃をマント回避したり補助魔法をこちらに撃ちまくってくれる。
古の神々という存在は、『ゼノギアス』においては人類より先の存在というラヴクラフト的な唯物論の装置となり、人類の発生がちゃんとシナリオの背景たる歴史と繋がっている。エレハイムとオヴェリアは共に祈るシーンがあるし、神への懐疑=信仰の無力さに吠える場面がそこかしこにあるのも両者は共通している。そういえば『ゼノギアス』ラストのフェイとカレルレンの問答は、まさに『タクティクスオウガ』の「二人のランスロット」であり、まったく同じセリフもあるのだった。

(25.10/4)