アイスランド・パンク 事実としてジャズはKilling Joke創設メンバーの一人、ジョーディーことケネス・ウォーカーを引き連れ、レイキャヴィクへと雲隠れした。興味深いことに、ジャズたちの約半年前になる81年8月、マンチェスターのThe Fallがアルバム『Hex Education Hour』用の曲を録音するためにレイキャヴィクを訪れている。ポストパンク時代きっての文学士だったマーク・E・スミスとジャズの交流は想像に難くない。二人が会話したとして、スミスがアイスランドの持つエソテリックなオーラをどう口伝したのかは気になる。 Rokk i Reykjavik おそらくはジャズたちとÞeyrが接触して間もなかった82年4月、アイスランドではドキュメンタリー『Rokk i Reykjavik』が上映された。これは81年から82年頭にかけて、地元のバンドの演奏を記録したものである。同ドキュメンタリーに出演したバンドの一つがTappi Tikarrassで、ビョークが在籍した、おそらくは最初のバンドだ。 ヒルマー・オウン・ヒルマーソン KUKLは何度か英国でライヴを行なっている。Psychic TVが85年5月19日にハマースミスで開いた『Thee Fabulous Feast Ov Flowering Light』もその一つで、PTVのメンバーとしてはローズ・マクドウォール( Strawberry Switchblade)やデイヴ・ボール(Soft Cell)がステージに上がっていることも注目に値する。 ヒルマー・オウン・ヒルマーソン (ⓒRuth Bayer)
58年生まれのヒルマーソンはpeyrの前身だったバンド、Fellibylur でドラムやシンセサイザーを担当しており、80年代初頭の時点でアイスランド国内の映画音楽の分野で活動していた。ソロでもシンセサイザーを駆使したエレクトロニクスに加え、高山から取ってきた石をリソフォン的に使うなど、科学と自然の折衷を試みているのは今でも変わらない。 ロンドンのケイオス・サークル 先んじてヒルマーソン個人を紹介したが、ここで彼とPTVおよびロンドンの魔術ネットワークの関係性を追ってみよう。彼は80年代初頭からロンドンとレイキャヴィクを行き来し、オカルティズム文献に力を入れている書店や同好の士の集いに顔を出していた。 ヒルマーソンは83年のレイキャヴィク公演をサポートし、当時グループに出入りしていたローズ・マクドウォールやデヴィット・チベット(Current 93)らとも繋がった。ロンドンの地下魔術ネットワークは一気に北大西洋を越えた1360キロ先のレイキャヴィクにまで広がったわけである。 ニューエイジ・トピックス:Rinpoche、Harry Oldfield、『Island』 88年のセカンド・サマー・オブ・ラヴでピークを迎えるレイヴの熱狂に関して、チベットとヒルマーソンの反応はそれほどポジティブなものではなかった。Current 93にとってのセカンド・サマー・オブ・ラヴの主役はダンス・ミュージックではなくフォーク・ソングだったからである(彼らの仲間でレイヴァーとなったのはCOILくらいのものであったが、これには少なからずAIDSの脅威も関係している。機会を改めて書いていきたい)。これにはチベットが敬服するLOVEやシャーリー・コリンズの影響が大きいし、人間関係的に面倒くさかったジェネシス・P・オリッジが「ハイパーデリック」を掲げてレイヴを謳歌していたことも無関係とはいえなかった。 いつだって機会を用意するのはヒルマーソンだった。彼はゲルマン~ノルディック系ネオ・ペイガニズムからクロウリー主義、さらにはテクノロジーをも含む多角的視点をもって、チベットの思考実験を手助けした。
結論(のようなもの)の一例が科学者ハリー・オールドフィールドの実験を記録したレコード『クリスタル』だ。オールドフィールドの研究対象である「クリスタルを使用してのエネルギーの視覚化」にチベットはいたく興奮した。発光や水蒸気の蒸発を捉えるキルリアン写真の技術を応用することで、クンダリーニやチャクラとして説明される「生命エネルギー」の撮影も可能になるというのだ。水晶「から」発せられる信号が約110bpmの間隔で変化することに基づいたクリスタルのノイズは、人間の可聴領域を超え、時にはオーディオをも傷めてしまうとヒルマーソンはライナーノートに記している。 この実験がいつ(後世、ひょっとしたら現在)実を結ぶのか、筆者は予測すらできない。この場ではクラブ文脈含めてアンビエントの概念が拡張していた時代に産み落とされた、科学と東洋思想の求婚的瞬間として記しておこう。 もう一つのニューエイジ的成果がCurrent 93とヒルマーソンの連名で作られた91年のアルバム『Island』(イスランド)だった。ヒルマーソンのテイストが色濃く反映されていることは、シンセサイザー由来のニューエイジ調の和音が支配するサウンドを耳にすれば自明のことである。演奏にはGodkristことÞeyrのグドゥロイグルやS.H.Draumur(90年のCurrent 93レイキャヴィク公演でも共演)のメンバーにはじまり、ローズ・マクドウォール、アイナー・オーン、果てはリンポチェまでもが参加している。しかし、何よりも知っておくべきは冒頭の「Falling」で、歌っているのは先も書いた『Thee Fabulous Feast Ov Flowering Light』の撮影も手がけた映像作家・羽田明子(当時ロンドンに構えていた自宅はチベットたちのたまり場になっていた)、そしてビョークだ。
『Island』以降、ヒルマーソンはCurrent 93と疎遠になっている。第一の理由は地理的な都合で、90年代前半の時点でチベットとその仲間たちは散り散りになっていた。スティーヴン・ステイプルトンはアイルランドに、チベットは一時期ではあるがスコットランドに、羽田はベルリンに、そしてヒルマーソンは本国アイスランドに腰を据えるようになった。
『Children of Nature』も『Angels of Universe』も、サウンドトラックはTouchからリリースされた。遡ればインダストリアル系のリリース(The Hafler Trioの録音にはヒルマーソンも何度か参加している)から始まったレーベルであるが、今ではエレクトロニカ~モダン・クラシカルの大家であり、あのヨハン・ヨハンソン(2018年没)やヒドゥル・グドゥナドゥッティルらの拠り所である。ここにTouchとヒルマーソンひいてはアイスランド音楽家の確かな縁が確認できるだろう。なお、ヨハンソンは生前のあるインタビューでヒルマーソンについて「彼にとってコンポーザーという称号はあまりに小さい。アイスランドの文化において彼は強大な影響を与えている人物だ」と話している。何度も書いていることだが、2000年代版『Rokk i Reykavyk』であるアイスランド音楽のドキュメンタリー『Screaming Masterpiece』で取り上げられる音楽家/バンドが育った文化的土壌にヒルマーソンが貢献したことは疑いようもない。第二の理由は創作活動を含めた私生活だ。ヒルマーソンの場合はコンポーザーとして確固たる地位を築いたことで、91年の映画『Children of Nature』(邦題:『春にして君を想う』)の劇伴は彼にとって大きな一歩だった。ある曲ではなんとリンポチェがパーカッションを叩いており、チベット仏教と(映画本編にも顕著な)アイスランドの退廃的死生観が交わった瞬間である。録音時期的にも『Children of Nature』は『Island』の兄弟とさえ呼べるだろう。 個と公、つまり創作から文化的環境への還元において、アイスランドの音楽家の多くがヒルマーソンの敷いた道を歩いている。同じ世代ではpeyr~The Sugarcubesのジギーがアイスランド本国で非営利団体Iceland Musicを設立している。主な業務は国内のフェスティヴァルの企画から、海外のアーティスト向けにアイスランド国内での録音をブッキングするマネージメントだ。ヨハン・ヨハンソンはオスカー賞を授賞し、Kira Kiraことクリスティン・ビョークと共にアーティストのコレクティヴ、Kitchen Motorsを設立した。ヒドゥル・グドゥナドゥッティルも『ジョーカー』でアカデミー賞を授賞し、スピーチ内でアイスランド音楽家、そして女性音楽家として世界に訴えた。 表面化することは稀であるが、作家たちと祖国のサイクルには、本記事で書いてきた秘境的トピックだって含まれている。Sigur Rósは2002年のレイキャヴィク芸術祭で、ヒルマーソンとステインドール・アンデルセン、そして16人編成オーケストラを伴う「Odin Raven Magic」を公演し、2019年公開の『Lord of Chaos』(マイケル・モイニハン著『血塗られたブラック・メタルの歴史』を原作とした映画)では劇伴を担当した。前者は「エッダ」に含まれていながら、ある時期までは偽の文書と判断され封印されていた物語で、Sigur Rósらの演奏は音で描く古代アイスランド史の再解釈だった。2009年にダライ・ラマがレイキャヴィクを訪れた時もバンドは同演奏を披露している。『Children of Nature』ひいてはデヴィッド・チベットらのサークル内で果たされたリンポチェとヒルマーソンの出会いが思い出される。
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