80sロンドン・アンダーグラウンド結合点② アイスランド

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アイスランド・パンク
82年2月、Killing Jokeがドイツの名匠コニー・プランクの下で『Revelations』の録音を終えたころのこと。キーボード兼ヴォーカリストであるジャズは迫りくる終末の予感に耐えられなくなっていた・・・いや、そこから免れるための天啓を得たことに喜んでいたのかもしれない。サッチャー政権が煽り続ける新自由主義と冷戦の恐怖がそれを保証したのか、とにかくジャズは黙示録の到来と、それを生き抜くためにアイスランドへ赴く必要性を確信した。今あるキリスト教ベースの世界が崩壊するならば、その次は「異教」と呼ばれているものが新たな模範と秩序になるのではないか...と。もとよりKilling Jokeの音楽は炎の属性だと公言していたジャズが「炎と氷の国」とされたアイスランドに行き着くのは必然だったといえる。彼の地を創世前に存在したとされる裂け目ギンヌンガガプと見たのか、あるいは自らがそれになろうとしたのか。

事実としてジャズはKilling Joke創設メンバーの一人、ジョーディーことケネス・ウォーカーを引き連れ、レイキャヴィクへと雲隠れした。興味深いことに、ジャズたちの約半年前になる81年8月、マンチェスターのThe Fallがアルバム『Hex Education Hour』用の曲を録音するためにレイキャヴィクを訪れている。ポストパンク時代きっての文学士だったマーク・E・スミスとジャズの交流は想像に難くない。二人が会話したとして、スミスがアイスランドの持つエソテリックなオーラをどう口伝したのかは気になる。

Rokk i Reykjavik

おそらくはジャズたちとÞeyrが接触して間もなかった82年4月、アイスランドではドキュメンタリー『Rokk i Reykjavik』が上映された。これは81年から82年頭にかけて、地元のバンドの演奏を記録したものである。同ドキュメンタリーに出演したバンドの一つがTappi Tikarrassで、ビョークが在籍した、おそらくは最初のバンドだ。
81年9月の結成から短い活動期間を経ての83年8月、彼女はÞeyrのメンバーであったグドゥロイグル・クリスティン・オータルソンやジギー・バルドゥルソン、そしてアイナー・オーンらと共にKUKLを結成する。公式のライヴデビューは同年9月に英国からやってきたCRASSのレイキャヴィク公演で、これは当時中央ロンドンの大学に通っていたアイナーがCRASSと交誼を結んだことで実現した。アイナーは父親の勤め先がロンドンであったことから、パンク真っ只中の正しい時期・正しい場所にいられたというわけである。先ほど話題に挙がったThe Clashレイキャヴィク公演もアイナーが企画したことで実現したため、彼はアイスランドに(数年遅れではあるものの)パンクを運び込んだ人物といっても過言ではないだろう。
KUKLは84年9月にCRASSのレーベルからアルバム『The Eye』をリリースに至る。バンドとしては短命であったが、ビョーク、アイナー、グドゥロイグルらは88年にThe Sugarcubesとしてデビューする。

ヒルマー・オウン・ヒルマーソン

KUKLは何度か英国でライヴを行なっている。Psychic TVが85年5月19日にハマースミスで開いた『Thee Fabulous Feast Ov Flowering Light』もその一つで、PTVのメンバーとしてはローズ・マクドウォール( Strawberry Switchblade)やデイヴ・ボール(Soft Cell)がステージに上がっていることも注目に値する。
KUKLとPTVの間にいたのがヒルマー・オウン・ヒルマーソンで、アイスランドとロンドン間の地下を走る秘境的水脈はもちろんのこと、アイスランド音楽史そのものを語る上でも避けられない人物だ。

ヒルマー・オウン・ヒルマーソン (ⓒRuth Bayer)

58年生まれのヒルマーソンはpeyrの前身だったバンド、Fellibylur でドラムやシンセサイザーを担当しており、80年代初頭の時点でアイスランド国内の映画音楽の分野で活動していた。ソロでもシンセサイザーを駆使したエレクトロニクスに加え、高山から取ってきた石をリソフォン的に使うなど、科学と自然の折衷を試みているのは今でも変わらない。
サウンドのデザインから録音まで、ヒルマーソンは現地のアーティストのサポートも意欲的に行なっている。たとえば本国では伝説的存在である詩人Megasが90年に発表したアルバムでも、ヒルマーソンはサウンドの統括を担当した。ここではpeyrのメンバーやビョークが招かれており、Megas→ヒルマーソン→ビョークというアイスランド・ポップの系譜がみてとれる。
「アイスランドの音楽」は今でこそマーケットとして確立されているが、かつてはアイスランドで音楽を身を立てようものならラジオから流れてくる英米の音楽を模倣するか、国外に飛ぶかの二つだった。ヒルマーソンはKUKLら後続らを支えただけでなく、後述する映画音楽としての大成によって、音楽を文化的な意味で本国に根付かせた。「音楽」がアイスランドに生まれた者の人生の選択肢の一つになったのは、ヒルマーソンの尽力によるところが大きいとさえいえる。
アイスランドを代表する作曲家であると同時に、ヒルマーソンは2003年から現在までアサトル協会の3代目高位聖職者にしてスポークスマンの役割を担い続けている。アサトルとは1972年に創立されたネオ・ペイガニズム運動体で、国家から正式な宗教として認定もされている。2015年の時点で会員は4000人を超えており、アイスランド総人口の1パーセントにも及ぶ。

ロンドンのケイオス・サークル

先んじてヒルマーソン個人を紹介したが、ここで彼とPTVおよびロンドンの魔術ネットワークの関係性を追ってみよう。彼は80年代初頭からロンドンとレイキャヴィクを行き来し、オカルティズム文献に力を入れている書店や同好の士の集いに顔を出していた。
ジミー・ペイジとオークションで競り合うほどの熱心なアレイスター・クロウリー研究者だったというヒルマーソンは、北欧神話ベースの異教やクロウリーのテレマといったトピックを分析的に、時に折衷的に伝えられた媒介的存在だった。彼の主な布教先はOTO系サークルやPTV、そしてパンクと魔術の融合体系として始まったケイオスマジック運動と同時期に中央ロンドンで開かれていたギャザリングの場、Talking Stickだ。
Talking Stickについての情報はインターネット上でも確かに存在しているが、非常に断片的だ。過去に筆者がAlan Trench氏(90年代から2004年までCurrent 93やCOILらの作品を流通させたネットワーク、World Serpent Distributionの共同設立者)に尋ねたところでは、Caroline WestburyとAmanda Proutenなる二人の「女性」によって運営されていたショップ、あるいはスペース(場)だったようだ。ドルイドやウィッカにまつわる無数のワークショップが行なわれ、諸外国からオカルティズム・神秘主義者、Magickの文字に引き寄せられる旅人たちが集まる隠れ宿のような空間であったことは想像に難くない。ある時期からTalking Stickは思想家にして実践者スティーヴ・ウィルソン(著作に『Chaos Ritual』)によって運営されるようになったようだが、2017年に氏が没して以降の詳細は明らかでない。
Talking Stickのオリジンが女性であることと、前回の記事で取り上げたオカルティック・インダストリアルの祭典The Equinoxの主催がゲイ(ProduktionのRoss Canon)と女性(Mary Dowd)であることは記憶に留めておくべきだ。

ヒルマーソンは83年のレイキャヴィク公演をサポートし、当時グループに出入りしていたローズ・マクドウォールやデヴィット・チベット(Current 93)らとも繋がった。ロンドンの地下魔術ネットワークは一気に北大西洋を越えた1360キロ先のレイキャヴィクにまで広がったわけである。
チベットやマクドウォールは86年の時点でPTVから距離をとっていたが、そこで得た交遊までは捨てなかった。マクドウォールとヒルマーソンはCurrent 93の録音に「プレイヤー」として参加にとどまらず、あちこちに点在する仲間たちのフラットを行き来しては知識や体験を日常レベルで共有していた。そのうちの一軒であるルーン研究家であり魔女であるフレヤ・アズウィンのフラットは、彼らだけによるTalking Stick的拠点となった。そこで開かれる会合またはパーティー(チベットの母親が料理を作りに来ることさえあった!)の主役はブレニヴィン(アイスランド産の蒸留酒)、アシッドと興奮剤、そしてネオ・ペイガニズムだった。チベットとDeath In Juneのダグラス・ピアースは、膨大な古代ゲルマンの知識とトリップ中の幻覚がない交ぜになった世界観を築き上げ、その時にしか生まれ得ない熱を『Swastikas For Noddy』や『Brown Book』のようなアルバムにパッケージしている。
ヒルマーソン自身もこの繋がりを活かした録音を残している。マクドウォールやアイナー・オーンが参加したOrnamentalはその一例だ。アイナーとは93年にもFrostbiteとしてもダンス・ミュージックを作っているが、当時最盛を迎えていたデトロイト・テクノやジャングルに比べると少々いなたすぎた。この時の録音で興味深いのは、後にマクドウォールのソロとしても発表される「Chrystal Days」だろう。ピアノを弾いているのはヤコブ・マグヌッソン、ヒルマーソンよりも5歳年上のキーボード奏者であり、すでにAOR/ジャズピアノのコンポーザーとして知られていた御仁である。TOTOのメンバーをも招いた『Jack Magnet』は人気が高く、日本でも2002年にCD再発されている。このマグヌッソン、なんと90年代のある時期にはロンドンにあるアイスランド大使館で勤めるようになり、ヒルマーソンと連携しながら英国とアイスランド間の「地上の」繋がりを強固なものにしていた。

ニューエイジ・トピックス:Rinpoche、Harry Oldfield、『Island』

88年のセカンド・サマー・オブ・ラヴでピークを迎えるレイヴの熱狂に関して、チベットとヒルマーソンの反応はそれほどポジティブなものではなかった。Current 93にとってのセカンド・サマー・オブ・ラヴの主役はダンス・ミュージックではなくフォーク・ソングだったからである(彼らの仲間でレイヴァーとなったのはCOILくらいのものであったが、これには少なからずAIDSの脅威も関係している。機会を改めて書いていきたい)。これにはチベットが敬服するLOVEやシャーリー・コリンズの影響が大きいし、人間関係的に面倒くさかったジェネシス・P・オリッジが「ハイパーデリック」を掲げてレイヴを謳歌していたことも無関係とはいえなかった。
80年代後半に勃興した事象でチベットが同期していたのはニューエイジ(リバイバル)運動といえる。たとえば前回の記事に登場したYouthやマーク・マニングらと共有していたマヤの叡智は、ホセ・アグエイアスの『マヤン・ファクター』(87年)といった著作によって世界的に注目を浴びるようになった。この時点でチベットの非キリスト教権的オブセッションの対象はクロウリーではなくチベット仏教に移行しており、彼は86年の時点でネパール移住の計画を立てたことさえあった。
Tibet(紛らわしいので、この段落のみこう表記する)はネパールでチベット仏教の高僧チメ・リグジン・リンポチェ('Chi.Med Rig.'Dzin Lama, Rinpoche
)と、英国人の東洋思想史家ジェームス・ロウから教えを受けた。その敬服の証としてTibetはリンポチェのタントラ詠唱をレコード化し、88年に2000枚という超強気のプレス数をもって世に解き放っている。同様に、90年にはアサトル協会の創始者であるスヴェインビョルン・ベインティンソン(『Rokk i Reykavyk』で彼はリムール語を朗読している)によるエッダのリーディングも音源化し、自身の霊的アイコン二名を世界規模で布教することに成功した。言うまでもなくベインティンソンとのコネクションはヒルマーソン経由のものだ。

いつだって機会を用意するのはヒルマーソンだった。彼はゲルマン~ノルディック系ネオ・ペイガニズムからクロウリー主義、さらにはテクノロジーをも含む多角的視点をもって、チベットの思考実験を手助けした。
結論(のようなもの)の一例が科学者ハリー・オールドフィールドの実験を記録したレコード『クリスタル』だ。オールドフィールドの研究対象である「クリスタルを使用してのエネルギーの視覚化」にチベットはいたく興奮した。発光や水蒸気の蒸発を捉えるキルリアン写真の技術を応用することで、クンダリーニやチャクラとして説明される「生命エネルギー」の撮影も可能になるというのだ。水晶「から」発せられる信号が約110bpmの間隔で変化することに基づいたクリスタルのノイズは、人間の可聴領域を超え、時にはオーディオをも傷めてしまうとヒルマーソンはライナーノートに記している。
この実験がいつ(後世、ひょっとしたら現在)実を結ぶのか、筆者は予測すらできない。この場ではクラブ文脈含めてアンビエントの概念が拡張していた時代に産み落とされた、科学と東洋思想の求婚的瞬間として記しておこう。
もう一つのニューエイジ的成果がCurrent 93とヒルマーソンの連名で作られた91年のアルバム『Island』(イスランド)だった。ヒルマーソンのテイストが色濃く反映されていることは、シンセサイザー由来のニューエイジ調の和音が支配するサウンドを耳にすれば自明のことである。演奏にはGodkristことÞeyrのグドゥロイグルやS.H.Draumur(90年のCurrent 93レイキャヴィク公演でも共演)のメンバーにはじまり、ローズ・マクドウォール、アイナー・オーン、果てはリンポチェまでもが参加している。しかし、何よりも知っておくべきは冒頭の「Falling」で、歌っているのは先も書いた『Thee Fabulous Feast Ov Flowering Light』の撮影も手がけた映像作家・羽田明子(当時ロンドンに構えていた自宅はチベットたちのたまり場になっていた)、そしてビョークだ。


現在のアイスランド・シーンへ

『Island』以降、ヒルマーソンはCurrent 93と疎遠になっている。第一の理由は地理的な都合で、90年代前半の時点でチベットとその仲間たちは散り散りになっていた。スティーヴン・ステイプルトンはアイルランドに、チベットは一時期ではあるがスコットランドに、羽田はベルリンに、そしてヒルマーソンは本国アイスランドに腰を据えるようになった。
第二の理由は創作活動を含めた私生活だ。ヒルマーソンの場合はコンポーザーとして確固たる地位を築いたことで、91年の映画『Children of Nature』(邦題:『春にして君を想う』)の劇伴は彼にとって大きな一歩だった。ある曲ではなんとリンポチェがパーカッションを叩いており、チベット仏教と(映画本編にも顕著な)アイスランドの退廃的死生観が交わった瞬間である。録音時期的にも『Children of Nature』は『Island』の兄弟とさえ呼べるだろう。
『Children of Nature』も『Angels of Universe』も、サウンドトラックはTouchからリリースされた。遡ればインダストリアル系のリリース(The Hafler Trioの録音にはヒルマーソンも何度か参加している)から始まったレーベルであるが、今ではエレクトロニカ~モダン・クラシカルの大家であり、あのヨハン・ヨハンソン(2018年没)やヒドゥル・グドゥナドゥッティルらの拠り所である。ここにTouchとヒルマーソンひいてはアイスランド音楽家の確かな縁が確認できるだろう。なお、ヨハンソンは生前のあるインタビューでヒルマーソンについて「彼にとってコンポーザーという称号はあまりに小さい。アイスランドの文化において彼は強大な影響を与えている人物だ」と話している。何度も書いていることだが、2000年代版『Rokk i Reykavyk』であるアイスランド音楽のドキュメンタリー『Screaming Masterpiece』で取り上げられる音楽家/バンドが育った文化的土壌にヒルマーソンが貢献したことは疑いようもない。
個と公、つまり創作から文化的環境への還元において、アイスランドの音楽家の多くがヒルマーソンの敷いた道を歩いている。同じ世代ではpeyr~The Sugarcubesのジギーがアイスランド本国で非営利団体Iceland Musicを設立している。主な業務は国内のフェスティヴァルの企画から、海外のアーティスト向けにアイスランド国内での録音をブッキングするマネージメントだ。ヨハン・ヨハンソンはオスカー賞を授賞し、Kira Kiraことクリスティン・ビョークと共にアーティストのコレクティヴ、Kitchen Motorsを設立した。ヒドゥル・グドゥナドゥッティルも『ジョーカー』でアカデミー賞を授賞し、スピーチ内でアイスランド音楽家、そして女性音楽家として世界に訴えた。

表面化することは稀であるが、作家たちと祖国のサイクルには、本記事で書いてきた秘境的トピックだって含まれている。Sigur Rósは2002年のレイキャヴィク芸術祭で、ヒルマーソンとステインドール・アンデルセン、そして16人編成オーケストラを伴う「Odin Raven Magic」を公演し、2019年公開の『Lord of Chaos』(マイケル・モイニハン著『血塗られたブラック・メタルの歴史』を原作とした映画)では劇伴を担当した。前者は「エッダ」に含まれていながら、ある時期までは偽の文書と判断され封印されていた物語で、Sigur Rósらの演奏は音で描く古代アイスランド史の再解釈だった。2009年にダライ・ラマがレイキャヴィクを訪れた時もバンドは同演奏を披露している。『Children of Nature』ひいてはデヴィッド・チベットらのサークル内で果たされたリンポチェとヒルマーソンの出会いが思い出される。
西側(くわえて日本)で成功を収めたSigur Rósが北欧神話やブラックメタル史のためにBGMを手がけた事実は、ポップとエソテリズムの美しい結合例だ。その一方で、大量消費社会やキリスト教的ドグマに対するソリューションとされているのか、強い自然崇拝と個人主義に基づく思想体系のアサトル協会が会員数を年々増している(2015年から建築を始めた巨大神殿がメディアに取り沙汰されたのは記憶に新しい)。二つの事実がヒルマーソンなくして起こりえなかったことを考えると、アイスランド・シーンこそが80年代ロンドンを中心に展開した秘境的ネットワーク最大の成功例に思えて仕方がない。

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