80sロンドン・アンダーグラウンド結合点① Youth,Batcave,Psychic TV

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昨年11月のニューヨークでJGサールウェル (Foetus,Xordox etc.)に取材した時に出た話題の一つが、80年代前半のロンドンで開かれていたラウンジ・ミュージックのDJナイトだった。レス・バクスターやレイモンド・スコットなど、90年代にモンド・ミュージックとして再評価される類の音楽ばかりプレイするもので、客もDJもドレスアップして訪れていたという。同じ時期に顔を出していたイベントが他にないかJGに尋ねると、即座にBatcaveの名が返ってきた。当時のロンドンで開かれていた、これまたドレスアップした演者とオーディエンスの生息地となっていたナイト・クラブである。
Killing Jokeのベーシストであり、現在はプロデューサーとしてのキャリアが著名なYouthは、2016年の『Dangerous Mind』インタビューでBatcaveを「当時のシーン間の結合点」と呼んでいる。

"「あれがインディのダンス・イベントの先駆けだったと思っている。あそこでは錬金術的な化学反応が起きていた。Alice In Wonderland(訳注:Doctor and the Medicsのクライヴ・ジャクソンによるゴス主体のイベント)のような場が生まれるきっかけもそうだった」"

歴史を後から追うと、個々の運動や現象を一つの島として認識しがちである。しかし、当事者たちの声を拾っていくと、島と島の間に橋がかかっていたことに気付くケースも多々ある。
良くも悪くも閉鎖的で「囲い」が発生しがちな現代に浸かっていると、データのみから「当時」を抽出するのは苦労するし、究極的には不可能だ。ただ一つ言えるのは、別々のシーンを行き来する人物は少なからず存在し、その誰かが結果的にシーンとシーンを繋いでいるということである。触媒、カタリスト、好事家と呼び方は色々だが、Youth(そしてJGサールウェルも)は間違いなくそんな結合点的存在であった。
Youthのキャリアと彼が介するネットワークは広大かつ深いため、今回は逆に彼を通してBatcaveや幾人のアーティストとの接点を書く。

ゴスの祭典:Batcave
Batcaveは1982年7月21日にロンドンのソーホー地区はディーン通りにあるクラブ、Gargoyleで毎週開かれていた催しである。ホストはSpecimenのオリー・ウィズダムとジョン・クレインだった。当時のロンドンで「花がない」として演奏を断られていた彼らは、自分たちとその同類であるバンドが演奏できる場を作った。「ファンクなし」を掲げたBatcaveのスターはThe Birthday Party、Alien Sex Fiend、The Cure、Sisters Of Mercy、UK Decayらで、イベントは当時の英国ゴス・カルチャーの中心地としてメディアにも取り沙汰されるようになる。やがてAlice In Wonderlandのような後続イベントが増え、Batcave本家もマンチェスターにあるHaciendaや、海を越えたニューヨークのDanceteriaでも開催されるようになる。当時のBatcaveの熱はファンジン『Panache』や『Whippings and Apologies』(2018年秋に書籍化)で実況され、『Panache』のミック・マーサーは91年にその総括的内容となる『Gothic Rock』(未邦訳)を出版している。同書に併せて作られたコンピレーション『Gothic Rock』(下図)はいわばゴス(あるいはポジティヴ・パンク)入門編的な内容として名高い

サイモン・レイノルズが『Rip It Up and Start Again』で書いているように、ある種のグラム・ロック回帰であったゴス・シーンのダンスフロアでは、Sex PistolsよりもSiouxsie & The BansheesやAlien Sex Fiendが歓迎された。また、80年5月に夭折したイアン・カーティスによって神格化が進んでいたJoy Divisionも(CANなどの影響を受けた曲のおかげもあって)ダンス・ミュージックとして受け止められていた。プロデューサーのマーティン・ハネットはバンドのことを「ゴシック的ダンス・ミュージック」とさえ称している。Sexbeatとしての演奏に加え、BatcaveのレジデントDJとなって大量のゴシック・ロックをプレイしていたヘミッシュ・マクドナルドは『The Face』84年2月号のBatcaveに関する取材で答える。


"「The Clashのミック・ジョーンズは一度だけBatcaveに来たことがあるけど、ここがどんなところなのかわからないまま立っていた。歳くったパンクスはSex Pistolsを求めたが、若い連中の目当てはAlien Sex Fiendのようなゴシックなバンドだった。ダンサブルでなく、重たい物憂げなやつだ」。"

スージー・スーやロバート・スミス(The Cure)だけでなく、ステージ下のオーディエンスたちもメイクによって「変身」し、The Crumpsまたは『ロッキー・ホラー・ショー』的コミカルさを携えた闇の世界の住人となった。当時はニュー・ロマンティック、暗闇とろうそくの炎がピッタリなゴスに対して、晴れがましいスポットライトの下に集う目にも音にも艶やかなムーヴメントがあったが、グラム的変身が共通項にある点で両者はコインの表裏であった。ニュー・ロマンティックのアイコンの一人であったマーク・アーモンド(Soft Cell)がBatcaveに通っていたことはその証左だろう。彼は同じイベントに通っていたニック・ケイヴ(The Birthday Party)、JGサールウェル)、そしてBirthday Partyのミック・ハーヴェイを介してニューヨークからロンドンを訪れていたリディア・ランチらとThe Immaculate Consumptiveを結成した。このスーパーグループは83年11月のニューヨーク・Batcaveで演奏した。

Youthとゾディアック・マインドワープ
Batcaveの参加者にはメジャーな存在になっていくバンドも含まれていた。その代表がJesus And Mary Chainで、やがてCurrent 93を名乗るDavid Tibetがいうには、Creationのアラン・マッギーがJAMCを最初に見たのもBatcaveなのだそうだ(85年の『SPIN』誌でJAMCは主な出演先としてBatcaveとAlice In Wonderlandの名前を挙げている)。
もう一つの大器がマーク・マニング、Zodiac Mindwarp & Love Reactionのフロントマンとして知られるようになる男である。音楽雑誌『Metal Fury』のデザインを生業にしていたマニングは、夜になるとペルソナ、Zodiac Mindwarpに切り替わり、Batcaveなどのイベントを渡り歩いていた。彼はKilling JokeのYouthとも親しく、2人でイビサ島を訪れて東洋やヨーロッパ異教の知識を肴にLSDのトリップに明け暮れていた。Zodiac Maindwarp(米国のアンダーグラウンド作家、スペイン・ロドリゲスのマンガからとられた)や、後になってバンドに加入するジェフ・バードのあだ名、Cobalt Stargazerといった名前もこの旅行時に二人で思いついたものである。『Dangerous Mind』のインタビュー内でYouthは彼の奇行を振り返っている。


"島の先端の洞窟で過ごしていたら、ある時Zed(マニングの愛称)が「睡眠が幻想だということに気付いちまった。俺はもう眠らない、木の上に座り続けて睡眠が陰謀だってことを証明してやる」とか言い出した。彼はホテルの外にある木の上に居座り、私はイワシの缶詰とかを渡していたんだが、最終的に彼は眠ってしまい木から落っこちた。"

Youthとの仲を考えれば不思議なことではないが、マニングはサイケデリック体験と異教へのオブセッションをThe KLFのビル・ドラモンドとも共有している。二人は神秘体験を求めてのザイール旅行やトム・ホジキンソンの『Idler』誌連載を経て、共著『Bad Wisdom』を発表する(筆者は未読だが、ロックンロールの幻想を忘れ去ろうとする著者2人が北極を目指すその道中を綴ったものらしい)。メガヒットによる潤沢な資金を持つ二人だからこそ出来る挑戦だ。
さらにKLFのジミー・コーティーはZMLRのオリジナル・メンバーでもあった。85年のZMLR結成直後にレコード会社との契約が決まると、マニングは初期メンバーやYouthら周囲の人間を容赦なく追い出し、代わりにCobalt Stargazerことジェフ・バードらを加入させる。「Prime Mover」がヒットするやいなや、ZMLRはあっという間にGuns N' Rosesのツアーに同行するような存在になった。マニングはこのツアーを基に『Get Your Cock Out』(未邦訳)といった本も執筆している。Youthが言うには「最高のロック・ストーリー」なのだそうだ。


やっぱり出てくるPsychic TV

80年代前半のロンドン地下文化に浸透していた錬金術リバイバルは、パンクと魔術の融合体系であるケイオスマジックを生んだ。当然マニングはここにもアンテナを合わせており、Youthやビル・ドラモンドたちと出会う前からPsychic TVとその会員たちの集い、Thee Temple OV Psychic Youth(TOPY)の輪にも加わっていた。彼はデヴィット・チベットづてに伝説の彫師Mr.Sebastianを紹介してもらい、亀頭にピアシングを施してもらっている。
Mr.Sebastianことアラン・オーヴァーズビー(96年没)はPTVの「Message of Temple」の朗読者としても知られているが、彼の功績は英国のボディアート・カルチャーを促進させたことに尽きる。76年に渡米し、Sailor Sidと共有した技術を英国に持ち帰ったセバスチャンは、その技工をアンダーグラウンドの世界のそこかしこに刻み込む。やがて違法施術者と認定されることで表立った活動が難しくなったセバスチャンだが、これにより彼の神格化が進んだのも事実だった。PTVのジェネシス・P・オリッジを筆頭に、シーンの人間にとってセバスチャンにピアシングやタトゥーを入れてもらうことは一つの名誉であり、目標でさえあった。彼の刻印はアンダーグラウンドに生きる者たちの手形のようなものなのだ。80年代後半、ジェネシスはレイヴで、マニングはハードロックの世界でそれぞれセバスチャンのアートを誇示しながら踊った。
右がMr.Sebastianことアラン・オーヴァースビー。左は米国のボディアート大家Sailor Sid
チベットとマニング初の共同作業は音楽誌『Flexipop!』最終号の企画だった。20世紀最高(最悪)のポップスターであるアイレスター・クロウリーを特集するもので、32号目となる雑誌のナンバーがしっかり666になっているあたり抜かりない。マニングは誌面のデザインを手がけ、チベットはクロウリーの記事を寄稿した。当時Youthがベン・ワトキンス(後のJuno Reactor)らと結成した新バンド、Brilliantの記事も掲載されるなど、魔術への関心をシェアする面々を余すところなくフックアップした内容だったようだ。
83年8月に発行されたクロウリー号はロンドンの魔術ムーヴメントが拡散していく真っ只中の出来事だった。その2か月前にあたる6月21日にはカムデンでインダストリアル・ミュージックとオカルティズムの祭典、The Equinoxが開かれており、Current 93をスタートさせる前のチベットやZos Kiaらが出演している。
シーンの中心にいたPTVは儀式としてのギグをあちこちで行ない、それらをすべて録音していた。時には英国を飛び出し、Batcaveの会場にもなったニューヨークのDancetria、ベルリンで催されたAtonal Festival、そしてアイスランドはレイキャヴィクでも公演することで、TOPYの分布を地理的に拡散させた。
PTVがアイスランドの地を踏む1年半ほど前、いち早くアイスランドの秘境(異教)的魅力に惹きつけられた男がいた。Youthと共にKilling Jokeとして知られていたジャズ・コールマンである。YouthがBatcaveのようなイベントに足繁く通い、PTVやマーク・マニングらと交流を深めていたのは、彼がKilling Jokeを脱退していたことにも起因していたのだが、この時点でバンドはほぼ凍結状態にあった。その理由はジャズとギターのジョーディー・ウォーカーが82年2月に突然アイスランドへと雲隠れしたからである。次回はジャズ・コールマンとアイスランド・シーンの繋がりから始めて、アイスランドと英国間を走った地下水脈について書いていく。

(22.6/21)