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19世紀半ば、英国の教育に燃えるセシル・シャープと彼が立ち上げたEnglish Folk Dance Societyによる文化的囲い込みは、民謡(フォークソング)は農民のものだという認識に基づいていた。郊外は聖域であり、そこに英国人が忘れつつあるものがあるという期待である。ハムステッド音楽院の校長にも就いたシャープは、教育用カリキュラムに民謡やモリスダンスを取り入れようとしたほどだ。しかし、シャープの理念を継いだ後続協会English Folk Dance and Song Society(EFDSS)の時代になっても、その一面的すぎる民謡蒐集は都市部を対象にしていなかった。農村の過去にのみ理想を見出し、産業社会の渦中である都市の現在には目を向けなかったのだ。A.L.ロイドは工業労働者間で歌われる民謡をコンパイルしたオムニバス『The Iron Muse (A Panorama Of Industrial Folk Music)』(1963)のライナーノート内で、シャープら先達の仕事の不完全さを指摘し、農村間での民謡の更新は19世紀で止まっているとも主張している。シャープが民謡蒐集をはじめた1900年からこのオムニバスが出るまで60年と少しかかったが、フォークの現場は郊外に限らず、あらゆる労働場を意味するようになった。歌われる現場はミュージックホール、鍛冶場、染め物工場、パブと様々で、それぞれの名で呼ばれることもあれど、これらがフォークソングの範疇に入ったことはロイドらが活躍した50~60年代のフォーク・リバイバルの功績といえる。歌い手および原典よりも歌とその需要の変遷を重要とする見方自体は、シャープが農民の民謡に向けていたものと同じであったが、ロイドやイアン・マッコール、そしてピーター・ケネディといった研究者たちはその視野を郊外と都市部含めたブリテン諸島全体にまでズームアウトしたのだった。そのうちの工場労働者が歌う民謡が「インダストリアル・フォーク」と定義された。 フォークのインダストリアル化(民謡はじめとした文化が工業社会準拠のルーツを持つこと)は、産業社会の加速すなわちテクノロジーの普及を意味している。シャープが亡くなった1920年代には、ブリテン諸島各地の工業化が進む過程にあった。たとえば1928年にはブリテン諸島初の鉄塔がエジンバラに建設されている。この鉄塔は田園地帯に建てられることで、自然と文明が交差する状況を作り出した。ウィリアム・モリスのいう「建築は自然への冠」をもっともわかりやすく体現したものともいえる。アシュリー・ハッチングスによるアルヴィオン・バンドのアルバム『 The Prospect Before Us』ジャケットは、まさにこの構図を戯画化したものであった。

V.A. / 『The Iron Muse (A Panorama Of Industrial Folk Music)』(1963 Topic Records)
ロイドがフォーク・リバイバルにおいて果たした音楽的貢献で最大級のものにTopic Recordsの運営がある。1939年に労働者の合唱などをリリースしていた同レーベルは、共産党関連の組織「労働者音楽協会」(Workers' Music Association)によって運営されていた。東側の国々で録音された合唱から身近な赤の歌い手まで、芸術作品ではなくより大衆的かつ共同体的な音楽を発信していたTopicにロイドが関われるようになったのは、EFDSSの会合に招かれ、協会のアーカイヴした民謡にアクセスできるようになったことが関係している。フィールドレコーディングで民謡蒐集を続けていたロイドは、その保存先としてTopicを利用し、おびただしい数のフォークソングをレコード化した。 ロイドがTopicに関与する1952年からさかのぼって1948年、アメリカではFolkways Recordsが設立され、民謡保存の精神が英米で湧きあがったころである。二国を繋いだのがアメリカ人アラン・ローマックスであり、彼は1950年に赤狩りのリスト入りを果たしたことをきっかけに英国へと逃げる(その後に出会ったシャーリー・コリンズを連れてアメリカ南部をめぐり、ミシシッピ・フレッド・マクドウェルやレッドベリーの歌を録音したことでも知られている)。 英国に滞在していたローマックスは、BBCの番組用に大量のフィールドレコーディングを実行した。スコットランドなど「イングランド以外」の地方に残る祭事の記録にも励み、コーンウォールの祝祭を記録した『Oss Oss Wee Oss』などはテレビで放映もされている。ローマックスの遺した一連の記録は、70年代以降のポピュラー文化、たとえばのちにフォークホラーというジャンルのクラシックになる映画『The Wickerman』のインスピレーションになった。
ロイドとともに方針転換後のTopic Recordsに助力し、BBC内で多数のプログラムを担当していたイアン・マッコールは、工場労働者たちにもっとも接近した研究者にして歌手であった。マンチェスター郊外のサルフォードで生まれたジミー・ミラー青年は、左翼系演劇団員として脚本を書く日々を過ごし、1940年にはその過激な体制批判の内容から逮捕までされている。その後徴兵されるも脱走し、終戦後は名をイアン・マッコールに改めて再び演劇を手がけていた。戦車などの稼働音を上演中に流すなど、サウンド方面にもその反体制的ユーモアを含めていたマッコールとその劇団「Theatre Workshop」は、イングランド北部の憂鬱をパフォーマンスに置換した点において、The Fallのようなバンドの先祖に数えてもいいはずだ。 Theatre Workshopが中央たるロンドンへの移動を決定した時点で、マッコールは演劇よりも演奏およびプログラムの製作こそ自身のポリシーにふさわしいと考えていた。50年代に入ると英国にはスキッフルのブームが入り込み、若者文化として民謡がアレンジされていく現象が起きる。ロニー・ドネガンはレッドベリーのレパートリーである「Rock Island Line」をカバーし、流行のきっかけを作った(のちにThe BeatlesとなるスキッフルバンドThe Quarry Menは56年にリバプールで結成)。 スキッフルの熱がロンドンに伝搬しはじめたころ、マッコールは民謡の歌い方も含めて研究する勉強会サークルThe Critics Groupをペギー・シーガーらとともに開く。流行によって半端に継承されていく民謡の在り方に危機感を覚えた二人は、「この集まりの中において」厳格なルールを設けた。歌い手は出身地方の歌や方言を使って歌うべし、舞台に立つからには基本をおろそかにするな、といったものだ。この生真面目な保存精神は、1953年からBBC内でマッコールが担当する『Ballad and Blues』にも通底している。そして1957年からの新番組『The Radio Ballad』は、その音響的な構成をもってイマジネーションを喚起する音の現場としてのラジオの価値を最大限に発揮したうえ、番組としても大きな反響を生んだ。初回は事故死した鉄道員ジョン・アクソンを悼む『The Ballad of John Axon」で、フォーリーサウンド(特定のシチュエーション用に疑似的に作られた音)と味気なく背景を説明するナレーション、そして登場人物を憐れむバラッドが流れる構成だった。好評を得て以来、鉄道員や船乗りのように巨大な装置を動かすための裏方仕事にスポットを当てた回がその後も続いた。今日、この音源を聴いてみると啓蒙色の強いはずの内容が、これほど奇妙な音響やモンタージュを有していることに驚く。これはスパイク・ジョーンズといった作曲家がラジオで表現していた視覚的サウンドとでもいうべき領域で、後のThe Hafler TrioやNurse With Wound、そしてThrobbing Gristleといったパンク以降に登場してきた音響工作異端派にとっての原体験と呼べる。
マンチェスターはラッダイトの現場となり、ウィリアム・モリス『ユートピアだより』では工業化の果てに消滅したことになっている。この都市で「Industrial Music For Industrial People」を掲げるThrobbign Gristle(TG)のジェネシス・P・オリッジが生まれたのは運命的と呼ぶしかない。10代をまるまる60年代に過ごしたジェネシスは、前身のCoum TransmissionからTG、そして後述のPsychic TVを通して、パンク以降のサイケデリック運動を試みた。 フォーク・リバイバルに邁進したコミュニストたちとTGを繋ぐとしたら、そのまま両者をまたぐ60年代を想像すべきだ。後年マッコールは己のフォーク蒐集がシャープ的なイングランド中心史観・上流階級の嗜好品的定義から離叛したことと、60年代の若者たちの意識が社会変革に向かったことを重ねるかのように、反ベトナム戦争やヒッピー運動に参加する若者を現代のハムレットであると論じた。まさにヒッピー~ビートニク時代の入り口たる1950年代末にはじまったサウンド・ドキュメンタリー『Radio Ballad』は、未来への期待、その作法であった。ここでは「現在の」悲惨さがバラッド(文字の書き読みができない農民たちに口承する意味合いが強い)として保存される。記録がそのまま創造的価値を持つというドキュメンタリーの社会的意義から、番組を装飾する奇妙な音響に至るまで、TGがデザインしたインダストリアル・ミュージックやウィリアム・バロウズのカットアップに準じた情報処理(スローガンの多様やファンジンの発行など)は、戦後英国で起きたコミュニスト経由のフォーク・リバイバルが象徴する啓蒙的活動を反転させた例と呼んでもいい。ウィリアム・モリスからロイドらが危惧した産業社会のリスクを、TGはフォーディズムという当時の傾向を引き合いに出し、醜悪かつ病的な形で表現した。
パンクが登場する前はフォークがパンク的なカウンター表現の依り代となっていた。スクウォット文化自体がクラブ(中世から続く寄合い環境の意)とヒッピーまで地続きであり、ポストパンク時代においてもそれは続けられた。ベック・ロードの空き家群を占拠していたTGはこの点においても過去のマナーを継承している。地域ごとのコミュニティを形成していくところもパンクが継承した要素で、ついでにサイケデリックはその短命さもパンクに似ていた。ドン・レッツはジョン・ロブ『Punk Rock: An Oral History』(2006)の中で、「ディラン、ビートルズ、フォーク・ミュージック、元来それらはわたしにとってパンク・ロックだったのだ」と話している。Xレイ・スペックスのポリー・スタイリーンは10代をヒッピーとして過ごしており、郊外と都市それぞれの生活のギャップを描くカンヴァスにパンク・ロックを用いた。 パンクがフォークと大きく異なる点は、DIYの三文字に象徴される個人主義の崇拝である。TGは「Hamburger Lady」という身元不明の焼死体についてのバラッドも歌ったが、内省の世界(独り言的ラブソング「United」から、グループの人間関係の不和についての「Persuasion」まで)も描いた。フォーク的クラブやヒッピーの集合的性格(あるいは集団トリップ)を反転させた超個人的世界観は、インダストリアルが革命と友愛が求められた時代を否定しながらそれらと不可分であることを認めている。 『Radio Ballad』最終回は300時間に及ぶ移民や住所を持たぬ移動労働者たちへのフィールドレコーディングを抜粋した『Traveling People』(1964)だった。TG流フォークの頂点は、この番組があべこべになったような、ジプシーや定住場所を持たない移動労働者に対する表現にて迎えられる。彼らは英国内で最も肩身の狭い隣人たちが、偏狭で国粋志向なファシズムの源にされている現状をかなり危険な方法で描いた。自らの作戦会議場であるビル周囲にたむろする労働者たちから「サブヒューマン」というアイデアを着想し、その名を授けたシングルにヴァシリー・ヴェレシチャーギンの絵画『The Apotheosis of War』を採用した。おびただしい髑髏が積まれたこの絵は反ファシズム的文脈で知られているが、「Subhuman」の不穏すぎる歌詞が一面的な評価を拒む。「お前は俺にとってウイルスみたいなもんだ」。
パンクの嵐のもとで60年代的なものの記憶を取り払わず、様々な色のライトをあてることで潜在的な各要素を炙り出すのがインダストリアルだった。ジェネシスはThe Process Church of the Final Judgement、チャールズ・マンソン、アレイスター・クロウリーなどをブレンドして、サマーオブラヴの幻想が潰えた69年だけの60年代といわんばかりのサイケデリック運動をTG解散後にはじめたPsychic TVとその教団「Thee Temple Ov Psychic Youth」中心に再創造した。 純粋な60年代的信仰者たるジェネシスはやがてアシッドハウスに傾倒するが、それ以前にPsychic TVで重要視されていた古代北欧史とペイガン的理論武装は、アシッドハウスの流行とほぼ同じタイムラインに生じた新興ジャンル「ネオフォーク」へと発展する。パイオニアは、社会労働者党主導のデモによく駆り出されていたパンク・バンドCrisisを母体にしたDeath In Juneだった。彼らのアルバムには「天国への道」(強制収容所へと続く道の意)やカナダコマンドー(収容者の荷物を見張る収容者への呼び名)といった戦時下の犠牲者たちが召喚されていたが、その抽象性は魔術研究・北欧神話由来のヨーロッパという知的ソースが加わり、英国(ヨーロッパ)のアメリカ化への反動として加速する。その結果が1992年(ユーゴスラヴィア紛争にNATOが介入し始め、EUが発足される前年)にDIJが発表したネオフォーク・クラシック『But, What Ends When The Symbols Shatter?』だった。アコースティックギターとホーン(ゲルマン民族が祭儀に使用する角笛を思わせる)が駆り出された本作には、ムッソリーニ時代にローマで建設された競技場スタディオ・デイ・マルミ(設立当初はムッソリーニ・スタジアムと呼ばれていた)内に設置された男性像の写真が使われた。ムッソリーニがナショナリズムの増強に古代オリンポス時代のイメージを使用した結果であるが、ここに西欧社会が忘れることのできない、古代に生きる自分たちの始祖へのノスタルジアを見出すことができる。本作の発表後、レコード店がこうした音楽の形容に「インダストリアル・フォーク」という語を使いはじめた(そのほかにダーク・フォーク、ゴシック・フォーク、フォーク・ノアールなどがある)。DIJのダグラス・ピアースと親しく、ビジネスパートナーでもあったアラン・トレンチらWorld Serpentは自分たちのショップにDIJのレコード/CDを置く際にこれらの語を添えている。また、ピアース自身もメディアの取材に対して自分の音楽性の説明に同語を用いている。やがて「ネオフォーク」がこれにとって代わったが、これはいつの間にかメディアやリスナーなど受け手間で浸透していったタームであることは留意したい。 ピアースの出自を考えれば、フォークは確かに労働者階級に受け継がれていたが、時代の空気を反映した新しい(そして過去を理想化する)生態を見せていた。かつて民衆を意味したフォークは、崖際に追い立てられたヨーロッパという共通認識を含みはじめ、インダストリアルという世界の影の部分を創造的に受け入れる思想と混ざり合うことでヨーロッパ的防衛本能に達した。セシル・シャープが抱いていた国家としてのイングランドに対する憂鬱と、個人主義の爆発としてのパンクに実践魔術を取り入れたケイオスマジックが合流した結果である。パンクという個人主義への福音を経過することで、アンダーグラウンド文化内では組織ないし政党政治的集団形成が縮小(凝縮)される傾向になり、より「わかってる人たちの集い」的な地下活動化が進んだ。実際にネオフォークのシーンはみな似通ったイメージを使うが、それは同族と繋がり合うための作法でもある。これらのバンド(すでにある形式を模倣するために存在しているとしか思えない者たちも多いが)は、ある種の美的感覚によって結びついたフォーク、歌から儀式に至る全部を包括した文化を共有した人々の集合なのである。
(25.10/7)
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