
80年代に全米を席巻したサタニック・パニックのドキュメンタリー『サタンがお前を待っている』を観たいのだが、近くで上映の予定はない。サタンに待ちぼうけをくらっている中で棚から手にとったのは、昨年末にThe Partridge Family Temple(Pft!)がリリースした『Family Tree』である。昨年5月に持田保さんのイベントでPft!について話して間もないころに発売のアナウンスがあったため、奇妙な縁を感じた。 Pft!とは、ショーン・パートリッジらが立ち上げたポップ・カルトで、誕生の背景の一つにサタニック・パニックへの反動があった。サタニック・パニックを簡潔に説明すると、悪魔崇拝の儀式の経験者による告発本『Michelle Remembers』(1980)を発端に広がった世界的(というか北半球的というか)悪魔忌避運動である。キリスト教義視点のタブーすなわち悪魔と異教(東洋思想と接続できるならヨガでさえも検閲の対象だった)は攻撃の対象となり、アントン・ラヴェイのChurch Of Satan(悪魔教会)もその矛先を向けられた。その悪魔教会が1988年の8月8日(シャロン・テート殺害事件の日)に開いたのラリー内で、ショーンたちはPft!を立ち上げた。 Pft!は公式に登録する必要のある宗教団体としてではなく、あくまで同行の士によるサークルであった。だから教義だったり、盃を交わすといった風の入会のためのプロセスもない。メンバーの共通項は60年代から70年代前半のアメリカ式ポップ・カルチャーを寵愛し(同時期に『RE/Search』誌が先行していた「Incredibly Strange Films」といった過去の文化の再評価運動と密接だった)、彼らはLSDやクラックの代わりにマッシュポテトと7UP(炭酸飲料)でピクニックに出かける。その合言葉は「fun is law」、楽しみこそ法なりと訳せるものである。マーク・フィッシャーたちは、かつて英国の公共に宿っていた進歩主義的精神をポピュラー・モダニズムと呼び、米国化(新自由主義化)したことでそれらが失われたことを思考の源にしていた。Pft!からすれば、マクドナルドやジェロ(低所得層が主な顧客であるゼリー食品)などの食料品から、数えきれないほどの個人チャンネルを有するテレビ番組に至る大衆向け大量生産こそがポピュラー・モダニズムである。そしてあらゆる商品を宣伝するテレビが聖書、すなわち人々と神との接点なのだとPft!は説いている。ショーンがよく使う表現「人生はリアリティーショーであり、神はディナーを楽しみながらテレビ越しに人々を眺めている」は、人々にとっての神という一般的な信仰の図の逆を想像させる。すなわち人々こそが神にとってのエンタメであり、ドラマの主役であるという存在論的な視点である。このセオリーは、ドナルド・トランプというテレビ人が大統領になったことで奇妙な説得力を持った。人生は舞台、あなたはオーディエンス、テレビをつければ誰もがその感覚を所有することができる、らしいのだ。 ここには、サタニック・パニックと並んでPft!の批判対象にして原動力でもあるハイパーリアリズム運動も関係している。70年代半ばから勃興したこの運動は、モノが溢れすぎて消費されすぎている米国への批判的まなざしがあった(わかりやすい例が、ハンバーガーからディズニーランドのキャラクターなどのありふれたモノを写実的に描いた絵画である)。公正さを求めるヒステリックな反応は、悪名こそ名声であるというクロウリーからラヴェイまでをも貫くロジックをショーンに再認識させた。ハイパーリアリズムが示した批評的なアプロプリエーションは、Pft!においては無邪気な過去とのセッションとなる。50年代に描かれた人種差別的なマンガの切り抜きから、サイケデリック文化の余波として作られていた子供向け番組まで、画一化された世間にキッチュな過去をねじこみ、ざわつかせることがショーンにおける新奇の条件となった。新奇とは大衆の目を惹きつけるものであり、たとえばサタンがオレンジジュースの広告に出ていた、あの時代が持っていたものなのだ、と。この意欲はやがてFeral House(宗教カルトThe Process Church of the Final Judgmentの伝記からアメリカン・ハードコア史まで包括する出版社)や雑誌『Answer Me!』といったトラッシュカルチャー・シーンと繋がる。

やっとアルバムの話になるが、『Family Tree』のベースはPft!のBGMにして共同体の理想像とさえいえるThe Partridge Familyである。1970年制作の米国産シットコムで、日本でも『人気家族パートリッジ』として放映されたことがある。プロットは父親を失ったパートリッジ一家がモンドリアンなデザインのワゴンを駆って、あちこちを演奏しながら渡り歩いていく内容だ。家族が演奏する音楽は実際にレコードとなり、長男キースを演じたデヴィット・キャシディはソロでも音楽家としてのキャリアを築いた。一家の曲で個人的にお気に入りなのが「Whale Song」である。日本ではシングル化されてないようだが。
もPft!のメンバー(ボイド・ライスとおぼしきDisneyland Partridge、ソロでフォーク・ソングのLPを出しているウォーカー・フィリップスらの名前がクレジットされている)による『Family Tree』は、パートリッジ一家ひいてはかの時代へのトリビュートアルバムともいえる。それは60年代末から70年代前半であるが、Pft!にベトナム戦争反対や「マクドナルドを食べるべきではない」といったフレーズに象徴される反抗の精神はない。むしろ当時否定されていた側であるアメリカ的精神の再訪である。このレコードはウッドストックが起こる一方で、「お金稼ぎはアートになる」と言い放ってヒッピーたちを否定したアンディ・ウォーホルと、悪名を糧にしたアントン・ラヴェイ、ポップでありサタンな男たちがトレンドを作り上げていた時代へのラブコールなのだ。インタールードで挿入されるパートリッジ一家のナンバー「C'mon Get Happy」はあの過去のリフレイン、当時ヒッピーたちが連呼(refrain)し、そしてウォーホルやラヴェイのような人間たちが控えてきた(refrain)声のこだまである。 サイケデリックへの憧憬はもちろんあって、「Mind Control」の語を繰り返すだけの同題曲はチープ(もちろん誉め言葉な)ヘッドミュージックである。これはアシッドをもって愉快なファミリーを(無理やり)形成していたチャールズ・マンソンへの言及としか思えない(デヴィット・キャシディとマンソンは同じ2017年に亡くなった)。同時にPft!は、ポップと呼ばれる音楽、たとえばマンソンと録音をしたBeach Boysのデニス&ブライアン・ウィルソンのような人たちがいる事実、60年代が光と闇のつがいであったことを思い出させてくれる。
半ば妄想的かつ肯定的な過去のアメリカへの片思いは、ドナルド・トランプとMAGA現象として生々しく映るようになった。ホワイトハウスのXひとつとっても、安っぽいテレビ番組のような言動が繰り返され、それに世界中から怒号と歓喜が生まれる。そんなリアリティーショー化させられた世界において、アメリカ合衆国議事堂突入デモの現場にいたことでもお馴染みAriel Pinkがダン・カペロヴィッツに「Jello」のMVを依頼したことは、米国版憑在論音楽ともいえるヒプナゴギック・ポップとPft!、そしてMAGAが繋がった瞬間である。グリール・マーカスとデヴィット・キーナンは、米国におけるフォーク・ミュージックの時代ごとの変遷と勃興をそれぞれ古く奇妙なアメリカ(マーカス)・新しい奇妙なアメリカ(キーナン)と評したが、Pft!からすればマクドナルドやジェロ、そして大衆的テレビ番組こそが歴史なきアメリカという国の集合的記憶ことフォーク、ということでいいのだろうか。 『Family Tree』を再生しながら一連のニュースを見ていると、絵に描いたディストピア設定の映画の登場人物になった気分だ。より正確にいえば、スクリーンに映り、外の世界を俯瞰し、コーヒーを飲みながら苦虫をかみつぶしている自分を誰かに眺められているような気分になる。
(25.7/15)
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