Death In Juneのシンセウェイヴ化に複雑な郷愁をみる

ツイート

Death In Juneのニューアルバムが突如発表されたというので確認してみたら、なんと過去の曲をシンセウェイヴ化させたものだったので呆気にとられた。悪趣味なファッショウェイヴ(動物豆知識botさんのこちらの記事が詳しい)、つまりは一ファンが投稿したパロディかとおもいきや、オフィシャルなのである。インターネット上のトレンドと無縁だと思っていただけに、この挙動には戸惑った。
どうやらここ10年の創作パートナーであるミロ・スナイデルが個人的に制作していたエディットを、ダグラス・ピアースが気に入ったようだ。スナイデルといえば2010年以降のDIJの音楽性、アコースティックギターではなくピアノが主体となった、より感傷的なそれを形作った人物である。スナイデルは個人のyoutubeチャンネルで多数のエディット/リミックス音源を公開しており、DIJ以外にもDepeche Modeといったバンドが射程に入っている。デペッシュに関してはノアール・ジャズ風のリミックスであり、シンセウェイヴに限らず多彩な切り口から80年代の名曲が改造されている。

今述べた事実があるからこそ、なおのことDIJをシンセウェイヴ化させたことが気になってしまう。前述のファッショウェイヴという例があるため、安易なトレンドへの便乗に見えるのは確かだし、そうだとしても正直乗れていない悪手とも思える。シンセウェイヴをビデオゲームの領域で推し進めたタイトルの一つ『Hotline Miami』をプレーした身としては、マスクをかぶることで日常の自分をリセットするキャラクターたちがDIJの偶像破壊(マスクによって個性を排し、ロックスター的神話を拒否する)と被る・・・なんて無理やりにでも考えないと納得できようのないギャップがDIJとシンセウェイヴの間には存在する。ギターとホーンが主体のアコースティック編成によるギャザリング、かたやギラついた電子音やゲートリヴァーブの酷使、くどすぎるコンプレッサーによる過剰で陳腐な仮想のフロア。それぞれの音楽性と、それが志向する空間さえも異なっている。

ピアース本人はこの過剰なエディットを偶然耳にして、ノスタルジックな気分になったという。以下、オフィシャルFB投稿より。「ミロ個人の思い付きなのか、このスタイルが流行りなのかはわからなかったが、80年代を感じるサウンドが気に入った。ヤン・ハマーが手がけた『特捜刑事マイアミ・バイス』シリーズの劇伴や、昔から好きだったスイスの奇妙なグループ、Yelloを思い出した。楽器の編成はこれまた好きなPet Shop Boysを彷彿とさせるもので、とにかくこの大胆なアプローチに魅了されたというわけ」。
DIJの持つレトログレッシヴな姿勢は、20世紀を飛び越えた太古の情景にさえ届くノスタルジアに支えられている。かつて失われた、あるいは現在進行形で去勢されている時代への意識という点で、幻想的80年代の希求は欧州ネオフォークと同じ性格を持ち始めたと考えられないことはない。記憶を美化した、あるいはそもそも体験していない世代によって誇張されているという点で、80年代は「かつて通過してきた時代こそがユートピアであった」という反進歩主義的なノスタルジアの理想郷となった。

シンセウェイヴが描く高揚の80年代は極めて西側的である。煌びやかで快感を煽り、これからも幸せが続くという無根拠な進歩主義。これこそDIJのアイデンティティを逆説的に保証させるものであった(ある時点で米国化する欧州を見限ったピアースは、90年代末にオーストラリアへと移住している)。NATOによるセルビア空爆からマクドナルドなどの資本展開まで、あらゆる面でヨーロッパは西側の介入によって変動を迎えており、それは80年代どころか今日まで常態化している。マーク・フィッシャーの説いた資本主義リアリズムが示す「現在を無限に延長させていく」力学は、同時にDIJの虚無主義的抵抗をも促進させている。1999年の『Occidental Cogress』インタビューで「EU以降のヨーロッパ人はすべてカポ(ユダヤ人強制収容所内で囚人を管理する職を背負ったユダヤ人)だ」と豪語していたピアースが、西側的ファンタジーの産物を懐古し、嗜むことは少々皮肉に思えてしまう。これは降伏か、それとも処世術か?


戻る

(23.2/20)

面白かったらサポート