英米フリーフォークの幽霊的地図

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サイモン・レイノルズ『Retromania』のあるチャプター「Spectral Americana」冒頭で、著者は「音楽における憑在論は、当事者たちが生まれ育った国や世代ごとの特色を持つのではないか」と推測している。英国のHauntologist(憑在論者)は幼い頃の文化的な記憶を現代に召喚しようと試みており、Ghost Boxのようなテレビとラジオに夢中のインドア派が、当時の公共放送や奇妙なSFドラマに執着する理由もここなのだ、と。そしてレイノルズは別の疑問を提起する。米国でそれにあたるのは何なのか?

レイノルズや同じ『WIRE』誌で主に執筆していたデヴィット・キーナンといった数寄者たちの目と耳を捉えたのがフリーフォーク運動だった。土着的で非都市的、クラブやコンピュータと小説の山が支配する自室にこもる人間とは馴染みが薄い、ゆえに神秘化される超自然的インスピレーションをまとったフォーク・ミュージックおよび運動である。キーナンは『WIRE』2003年8月号でヴァーモント州のブラトルボロで開かれたBratteleboro Free Falk Festivalをレポートし、「New Weird America」というジャンルを提唱した。これはグリール・マーカスが、ハリー・スミスによる1920~30年代のフォークやカントリーなどの録音集『Anthology Of American Folk Music』に対して贈った賛辞であり概念である「Old Weird America」をもじったものだ。キーナンは記事が世に出る2ヶ月前に、その時点での彼の集大成たる英国オカルト的音楽史『England's Hidden Reverse』を上梓している。60年代末にはヒッピーのコミューンが乱立したブラトルボロで演奏されるフリーフォークとその集いは、キーナンにとってCurrent 93やCOILたちが継承し、発展させた霊的フォークロアと同じように映ったのかもしれない。フリーフォークの一音楽的特徴としてドローンが用いられがちなところも、Current 93のハーモニウムやハーディガーディによるリチュアル・ノイズを思い出させるには充分だ。キーナンが90年代末のテキサスやアリゾナから出てきたフォーキー・バンド、CalexicoやMidlakeといったバンドに対して関心を寄せなかったのは当然であった。

フライヤー画像を見てみれば、Bratteleboro Free Falk Festivalに出演したラインナップが、今日のフリーフォークの代表的作家とあまり重ならないことに気付く。このジャンルのステレオタイプが確立されたきっかけは、デヴェンドラ・バンハートが2004年にコンパイルした『The Golden Apples Of The Sun』である。このオムニバスには、ジョアンナ・ニューサム、Cocorosie、アントニー・ヘガティから、The Tower Recordings~MV & EEで知られるマット・ヴァレンタイン、そして2000年代半ばに復帰したヴァシュティ・ブニャンがバンハートとの共作で参加している。新鋭たちだけでなく、(残酷にも)忘れ去られていた過去、それも英国のそれにも光があてられたのだ。
 ブニャンの復帰はフォーク界において(知る人ぞ知る)衝撃だったが、興味深いのは同時期の英国でも伝説的シンガーたちの再評価運動が起こっていたことだ。その例がサイモン・フィン、ビル・フェイ、シャーリー・コリンズで、三者の復帰にはすべてCurrent 93のデヴィット・チベットが関与していた。チベットは英フリーフォークの代表格であるSix Organs Of Admittanceことベン・チャスニーや、アントニー・ヘガティ(後のANOHNI)とも親しく、彼らをバンドの録音に何度も招いている(アントニーのファースト・アルバムはチベットが運営するDurtroからリリースされた)。チャスニーとアントニーは『The Golden Apples Of The Sun』に参加しており、チベットとバンハートは交わらずとも似た役回りを演じていたともいえる。

チベットがアントニーを推したことと同じように、バンハートの出世も見つけられ、招かれたことがきっかけだった。その才能をいち早く見抜き、投資したのはマイケル・ジラで、彼はSonic Youthらと並ぶニューヨークのロック実験派、所謂ノーウェイヴ第二波にくくられるThe Swansのリーダーである。1997年にSwansを一時凍結させ、アコースティックギターと歌声が主軸のAngels of Lightとして活動していたジラは、当時のパートナーであったショバーン・ダフィづてにバンハートの音楽を知った。その後ジラとメールをやり取りした末に、バンハートはわずかな所持金だけでニューヨークへと移住する。
ジラの2002年にYoung Godからリリースされた『Oh Me Oh My』は、そのノイズが残された音像と、あちこちでタイニー・ティム(ディランと同世代にして唯一無二のWeirdな歌手)を思わせる歌が過去への執着を臭わせ、英国Hauntologistたちの影を呼び出す。実際に、建物の外からバンハートの歌声を耳にしたダフィは、彼が女性かタイニー・ティムによる歌唱だと思い込んでしまったという。

ヴァシュティ・ブニャンだけでなく、70年前後のフォークソングを掘り続けていたバンハートにとって、Swansの音楽はかねてから重要だった。ロックやノイズというコンテキストでバンドを受け止めていたリスナーやフォロワーたちと違って、バンハートは90年代以降の非ノーウェイヴ的な音から離れたTHE WORLD OF SKIN名義や以降の音楽を愛好していた。ジラがノイジーなバンドというそれまでの評価から抜け出すために、当時のメンバーであったジャーボーらと思考錯誤していた時期の産物である。
その音楽の形容に「ポップ」の語を用いることはあながち間違いではなく、ジラたちもそうであることを利用した。88年に英国のMuteレーベル傘下であるProduct Inc.からリリースされたJoy DIvision「Love Will Tear Us Apart」のカヴァーなどは、実に野心的なアイデアだ。実際に好評を得た同12インチは、米国の大手レコード会社Uniのプロデューサーの目に止まり、Swansをビル・ラズウェルにプロデュースさせる話ができあがった。
こうして作られたのが当時のSwansの新機軸にして、後のAngels of Lightや今日の新編成Swansの青写真とも呼べる『The Burning World』である。制作はラズウェルの意向がかなり強かったようで、ジラは後年になってから本作に消極的な態度を示している。もっとも、音楽性よりはUNIレーベルとの軋轢と同社の破産から始まった不遇時代を思い出させることが主な理由だろう(このあたりの恨みつらみはニック・スルズビーによるオーラルヒストリー『Sacrifice and Transcendence』で告白されている)。
アルバムの発表から約1年後、無一文に等しかったジラはビジネスにおいてもセルフコントロールを優先した結果、自主レーベルYoung Godを開く。

 『The Burning World』の音楽性自体はジラにとって前向きな結果をもたらしている。以降も実践され続けるフォーク路線は一種のルーツ再考ともいえるもので、ジラはブルースやフォーク・ソングのクラシックが持つ霊的な感触を探り出した。『The Burning World』ではBlind Faith「Can't Find My Way Home」がカヴァーされ、同時期のライヴではセットリストにニック・ドレイク「Black Eyed Dog」が含まれていたことは明らかな証拠だろう。古き英国(郊外)への関心と、激しくも黄昏時を音で表したかのようにメランコリックなSwans流フォーク・ソングは、同時期にアコースティック・フォークへ移行したDeath In JuneやCurrent 93ら英国オカルト派とオーバーラップする。このシンクロは、二者の音楽がアポカリプティック・フォークという形容を経て、ネオフォークという一大ジャンルへと体系化(すなわち無数のフォロワーであふれかえ、新しい意味づけがなされること)されていく、まさにその過程に発生していた。そこで歌われる光景はキリスト教に基づく進歩主義的世界観の没落であり、サマーオブラヴ時代のテキサスでThe Changesが歌ったような、内省的コズミック・ホラーとも換言できよう。
Swansと欧州オカルト派に違いがあるなら、ジラが常に抱え込むマゾヒスティックな感覚、現実の狭間で身悶えする私的な思考が音楽を支配していることである。実際はDeath In Juneも多分に個人的かつ内省的であるのだが、ナチズムやヨーロッパ主義をパレットに置いてしまった時点でこうした見方はされなくなっている。ユーゴスラヴィア紛争が起きている時期を考えれば、それも当たり前なのだが。

Swansのフォーキーな姿勢は、『Soundtracks for the Blind』や『The Body Lovers / The Body Haters』を挟むことで、より先鋭化した。この二枚はバンド史上においてフォーク路線の転向と同程度に重要な存在なのだが、強迫観念的なスタジオ作業の没頭が、ジラにバンド自体の封印を決断させる。こうしてジラは過剰に過密な音楽から離れ、アコースティックギターと歌だけで表現するためのプロジェクト、Angels of Lightを立ち上げた。
 Angels of Lightは後の新生Swansだけでなく、周囲の人間にとっても偉大な露払いだった。上で書いたように、ニューヨークへ引っ越してきたバンハートは、AoLのツアーに同行し、アルバム『Everything Is Good Here/Please Come Home』にも参加した。Akron /FamilyはAoLとの連名でアルバムを録音し、バンドはAoLのライヴでバッキングさえ務めた。

フリーフォークに喜んだデヴィット・キーナンのような書き手が、なぜSwansを同シーンにおける起点に数えないのかは不思議である。それはともかく、結果としてキーナンやサイモン・レイノルズは、2000年代後半にインターネット上で同時多発的に芽生えた花々から憑在論的感触を見出すようになった。キーナンはフリーフォーク勢と同じ西海岸を拠点にしていたAriel Pinkやジェームス・フェラーロらをヒプナゴギック・ポップと名付け、新しいサイケデリアの誕生として祝福した。フリーフォークの郊外賛歌よりも数段ねじれた海岸都市のサバービア感覚、ショッピングモールといった機能性に特化した空間が持つ「Haunted」なムードを音楽とヴィジュアルとして出力することで、現代の出来事が過去のようにパッケージされていく。私見としては、ジャック・ゴールドスタインのような米国ハイパーリアリズム作家を思わせるコラージュは、サッチャー/レーガン以前のムードを逃避的に追求し続けるGhost Boxと似て異なるものだと考えているのだが。

(あくまで英国視点の)米国における憑在論的音楽は、フリーフォークからヒプナゴギック・ポップへと移行した。デヴェンドラ・バンハートが愛聴していた日本産フォークのエッセンスを盛り込んだり、ジュリア・ホルターがRVNGからリリースしたことは、フリーフォークが色々な意味で「中心」の音楽になったように見える。これによって目につくのが、英国へと向かっていった、言い換えれば英国的Hauntologistに近づいた者たちだ。
キーナンが無視していたMidlakeは、以前からその傾向こそあったもののブリティッシュ・トラッドへと深入りし、2010年発表の3rdアルバム『The Courage of Others』でThe Incredible String Bandのような田園派になった。2022年にもバンドはウッドストック(ジェスの生まれ故郷)が持つフラワー・ムーヴメントの歴史と、現地に対する自分たちの記憶を下地にしたアルバムをリリースした。バンドの特色である室内楽めいた編成は、同アルバムから参加したフルート/キーボード奏者ジェス・チャンドラーによって、その欧州的香りをむせかえるほどにまで強くしている。また、録音期間中にジェスがPneumatic Tubes名義でGhost Boxからレコードを出したことも見逃せない。これは同レーベルに「米国側」から参加した数少ない例だからだ。
ヒプナゴギック代表であり異端児Oneohtrix Point Neverは2013年から英Warp Recordsのアーティストとなった。極めつけは同レーベルから2020年に出された『Magic, Oneohtrix Point Never』だ。架空のラジオ局とその放送という、あまりにGhost Box的なコンセプトは、ラジオの霊媒的機能を探求したThe Hafler Trioのポップ版であり進化系でもある。特定の世代にとって、OPNがかつてのBBCラジオ的な存在になることを予感しないわけがない。

過去を現在に召喚するのが、音楽における憑在論だという定義には大いに同意できる。しかしMidlake(あるいは古き英国のポピュラーカルチャーを通過していないジェス・チャンドラー)のような例があると、各々が「失われた」または「気付いた時には既になかった」という場所(時代)を紐づけた幽霊的地図こそが第一にあるのであって、そこに「生まれ育った国」という前提はさほど意味を持たないものではないかと思ってしまう。

※余談
Ghost BoxはYoutubeを新時代のテレビでありタイムマシーンとみなしているが、米国はアルバカーキにも同じアイデアを提唱している団体、The Partridge Family Templeがいる。ひょっとしたら米国で一番のHauntologistかもしれない連中の集いだが、説明が難しいために本記事では除外した。11月に発行予定の『MUSIC + GHOST』(仮。名前変えまくってすいません)で掲載予定。


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(22.9/12)

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