Netflixオリジナルのドキュメンタリー『The Sons of Sam: A Descent Into Darkness』(『サムの息子たち: 狂気、その先の闇へ』)は、76年7月から77年8月にかけてのニューヨークで起きた連続殺傷事件の顛末と、その背景にカルト組織の存在があったことを検証している。より正確に書けば、この検証を孤軍奮闘して進めた記者モーリー・テリーの生涯を追った内容だ。 『The Ultimate Evil』と「カルト」へのヒステリア モーリー・テリー『The Ultimate Evil』
モーリーは独自の調査の過程でNY市警に幾度となく捜査の見直しを求めた。NY市警が体面保持のために姿勢を変えなかったことは明白で、これに目をつけたマスメディアは一記者と警察の対立をショー的に書き立てる。サムの息子事件はいつの間にか一つの連続殺傷事件の域を越えてしまっており、政治的トピックとさえ呼べる存在になっていた。 PCFJはサイエントロジー教会のロンドン支部に所属していたマリー・アン・マクリーンとロバート・ド・グリムストンが63年の英国で設立した団体である。サイエントロジー教会で共有されていた哲学に、グリムストンとマクリーン、その他会員たちが終末思想をブレンドしたことでPCFJの教義が形作られた。サイエントロジー教会内で実践されるカウンセリング的行為「オーディティング」では、質問者からの問いかけや提案をプロセスと呼び、これがPCFJ理念の核になったという説がある。また、魔術研究家のゲイリー・ラックマン(元Blondieのベーシスト)は、団体が設立直後にメキシコで経験したハリケーン下での生命の危機が一種の神秘体験となり、それがPCFJの終末的ヴィジョンの骨子になっているのでは、と番組内で推測している。 チャールズ・マンソンはPCFJが発行していた広報誌『Process Magazine』の「death」号に寄稿していた。この雑誌は『Oz』や『International Times』のようなラディカル雑誌と同じように、サイケデリックなコラージュをもって読者の視線を奪っていた。漆黒の宣教師風スタイルと並ぶPCFJのイメージ戦略であり、ヒッピー・ムーヴメントに乗じて自分たちのメッセージを拡散する意図があったことは間違いないだろう。マリアンヌ・フェイスフルは同誌のインタビューに応じ、噂ではあのサルバドール・ダリも一読者だったと囁かれている。ジェネシス・P・オリッジはティモシー・ウィリー著『 Love Sex Fear Death: The Inside Story of The Process Church of the Final Judgment』(2009年 Feral House)に寄せたテキスト内で、当時の『Oz』誌内にはPCFJをマインドコントロール目的のカルトだと警告する文章が添えられていたと述懐している。その悪名が逆に己がPCFJへの興味を促進させた、とも。 『The Ultimate Evil』の話に戻ろう。同書は出版されるやいなや一大センセーションを巻き起こし、マスコミも大いに持ち上げた。しかし、その実は真相究明や公平な捜査の再開を求めているわけではなく、視聴率目当てのネタとしか思っていなかった。煽情的な司会と意図的な編集にまみれたワイドショー以上のものは出てこなかったことが『The Sons of Sam』ではきちんと検証されている。地味だが大事な同番組の特徴として、当時引き合いに出されたであろうカルト組織やその発行物の名前を挙げる「いかにもな」編集が控えめになっている。これは当時のメディアが見せた偏向と加速を省みたところが大きいのではないだろうか。 さて、上述の通りNY市警にとってもモーリーの持論「事件の背後にカルトの存在」と「NY市警の力不足」は耳が痛く、彼とその著書はなんとしてでも排除したい存在になっていた。当時の捜査を担当していたジョー・コフィ警部はわざわざモーリーが出演するラジオ番組に「リスナー」として出演し、司会者をよそに激しい論戦を展開した。メディア側としては双方が燃え上がってくれれば視聴率が上がるため、真偽や公平性などはどうでもよかった。やがてモーリーは自分が客寄せ程度にしか使われていないことや、NY市警を動かすほどの衝撃を与えられなかったことにストレスを感じるようになっていった。 『The Ultimate Evil』やサムの息子事件については『The Sons of Sam』を見てもらうのが一番手っ取り早いので、ここまでにしておく。これから書いていくのは、上で述べた「ハチの巣めいた構造」が生んだいくつかの事象、その中でも『The Ultimate Evil』を中心に巻き起こったカルト・バッシングの余波と、それとのシンクロニシティとも呼びたくなる諸処についてである。これらが一連の事件にダイレクトな繋がりを持っているわけではない。しかし、この時代でなければ生まれなかったことは確かだろう。いつもの箇条書き的な事実の列挙であるが、すべてが事件に関係しているわけではないことを承知した上で読んでほしい。 Feral HouseとChurch Of Satan 『The Ultimate Evil』が出た87年、いくつかの個人誌を発行しながら映画と舞台の批評を嗜んでいた書店員アダム・パーフリーは、友人のケネス・スウィージーと共にAmok Pressを設立する。同社の数少ない発行物であり、パーフリーのキャリア史上最大の功績と呼ぶべき本が『Apocalypse Culture』(1987)だ。これは彼とその周辺の異端者たちによるエッセイを収録した本で、カルトや猟奇といった語で集約される人類史のダークサイドを臆することなく表現している。これが『The Ultimate Evil』と同じ年に出た偶然はあまりに奇妙で、これ自体が善と悪の双対性、愛と憎しみが「つがい」で存在することを証明するかのようである。89年にパーフリーはAmok Pressをたたみ、個人でFeral House(FH)をワシントンに設立。フリンジ・カルチャー研究の大家として、パーフリーが亡くなった2018年以降も君臨し続ける出版社となった。 今日においてFHはアメリカン・ハードコア史の決定版、スティーヴ・ブラッシュ『American Hardcore』や、マイケル・モイニハン『ブラック・メタルの血塗られた歴史』を世に放つ、異端文化の理解者として認知されている。しかし、設立当初はこれらの文化はある意味で「ポップ」なものとして見られなかった。パーフリーが時代の先を行っていたことは明白だろう。それはボーダーラインの向こう側へと「半歩」踏み込み、自身が日常と異常の境目となる越境型ジャーナリズムだ。 なお、『Apocalypse Culture』は97年に増補改訂版が出版されており、そこではロバート・N・テイラーがPCFJ支部でミッドナイト・メディテーションを体験し、Changesとして歌った一夜を振り返っている。 FHのリリース第一弾はChurch Of Satan(CoS)創設者アントン・ラヴェイが71年に記した『The Satanic Witch』の復刊だった。パーフリーはCoSの会合およびラヴェイ本人とも盛んに交流していた。彼はラヴェイから息子と呼ばれていたほどであり、晩年のラヴェイを自身の仕事でサポートしていた(92年にはラヴェイの新著『The Devil's Notebook』も出版している)。 もう一人のラヴェイの精神的息子であり、CoSの後継者として名も挙がっていたのがボイド・ライスであった。ノイズ・アーティストNONとしてのキャリアは過去の記事でも書いたが、ここでフォーカスされるのは当然好事家にして異端文化研究者ボイド・ライスとしてだ。モンド・カルチャーの大御所RE/Searchによる『Incredibly Strange Films』の出版記念パーティーでラヴェイと出会ったボイドは、サンフランシスコにある黒塗りの「悪魔の家」に招かれ、それ以降は週に1度は遊びに行く仲となった。ボイドが幼少期に体験したオカルト・ブームには当然ラヴェイの著作も含まれており、後述する英国のインダストリアル~ケイオスマジック・シーンの面々と彼が共有していた終末思想は、やがてラヴェイ的サタニズムへと帰結していく。 ボイドはその人間関係において、『The Ultimate Evil』並に触れがたい(と同時に叩きやすい)存在だった。60年代後半のカリフォルニア州は犯罪率が悪化し、80年代になってもそこに改善は見られなかったとされている。70年代にはSLAのような武装極左組織の駆け込み先になり、同時にネオナチ団体、そして多数のカルトが根付いていた。そんなところに住んでいたこともあり、ボイドは当時の西海岸に蔓延する暴力的な共同体と(時には望まぬ)つながりを多数持っていたのだ。たとえば89年には極右組織American National Front創設者のボブ・ヘイックとは女性雑誌『Sassy』のためのピンナップを撮影した。同じ頃には収監中のチャールズ・マンソンと頻繁に会話し、彼の信仰者と組んで脱獄まで企てた(もちろん未遂)。その一方で、西海岸のネオナチ団体からは、「アントン・ラヴェイはユダヤ人かつサタニストであり、その仲間も同様である」という言いがかりをつけられて脅迫されたこともある。こうした出来事が珍しくなかった80年代中頃から後半のサンフランシスコがボイドのサバイバル的個人主義、その屋台骨となる自己完結的なサタニズムを補強したことは間違いないだろう。彼が銃の所持を肯定する理由もここにある。ちなみに彼は当時から拳銃を所持するようにはなったが、実際に発砲したことはただの1度だけだという。それは本物の拳銃の所持を信じてくれないブリクサ・バーゲルトのために、彼の部屋の壁に撃ってみせた時だった。 ジェネシス・P・オリッジとPCFJ ボイドが70年代末に渡英した時の主な交流相手が当時Throbbing Gristle(TG)として活動していたジェネシス・P・オリッジだった。もともとメールアートで海を越えて連絡をとっていた二人は、フリンジと称されるカルチャーの知識を共有した。ボイドはジェネシスにとって、モンテ・カザッザに並ぶ米国からのメンターとなった。ジェネシスやデヴィット・チベットたちがコミットしていたケイオスマジック運動においても、ボイドはありったけの知識を共有し、仲間たちのレコードにも参加した。 常に孤高であることを選ぶボイドに対して、ジェネシスは指導者およびグルの素質があった。TGとその母体となったCoum Transmissionsの頃からカルトの要素を導入しており、その構造的なモデルになったのがPCFJなのである。Coumとして活動する以前の67年ごろ、いちアートスクール生徒だったジェネシスは街角で『The Process Magazine』を配っている一信者に出くわした。長い髪と髭をたずさえ、真黒な宣教師のコートとチョーカーを身に着けていたその信者はジェネシスの目を捉えた。それは後年にジェネシスが自分のカルトたるTemple Ov Psychic Youth(TOPY)をデザインする時の指針になっている。カルトに大切なものはヴィジュアルであり、ファッショナブルでなければならないのだ。TOPY会員がチャールズ・マンソンのTシャツを着たり、頭髪の1割だけを伸ばして残りを剃るヘアスタイル(ヒンドゥー教に基づいた、禁欲と退廃のバランスを象徴するのだそうだ)をとっている理由もここにある。 『People』誌面いわく「この不道徳な男が子供たちを堕落させる」」 Coum TransmissionsとしてICAで開いた挑発的展示、その名も『Prostituion』や、TGのナチス趣味を臭わせるイメージ、そしてカルトという共同体そのものを自らで実践したPsychic TV/TOPY。ジェネシスはあらゆる時期で英国社会、そのキリスト教義を根幹とする政治の影を踏み続けていた。それまではあくまで「物議を醸す」一アーティストとして認知されていたところが、『The Ultimate Evil』出版の翌88年に突然メディアから攻撃されるようになったことは注目に値する。同書で言及されたPCFJはそのまま「カルト」という語に抱かれる悪しきイメージの体現者となり、ジェネシスのやることなすことがこれに当てはまってしまったのだ。TOPY内のアイコンに使われていた狼がPCFJにとってのそれであるシェパード犬を想起させたこと、89年にPsychic TVとして発表した『KONDOLE』(ジョン・C・リリーの著作にインスパイアされたアルバムで、水族館におけるイルカの酷使に反対する目的で作られた)制作時に関係をもった科学者/哲学者ティモシー・ウィリーが、実はかつてのPCFJ会員であったことは実に間が悪かったといえる。 ロンドンで巻き起こったカルト・バッシングの下地は、『The Ultimate Evil』の影響が出るよりも前から出来上がっていた。87年に英国警察は捜査作戦「Operation Spanner」を全土を対象に展開した。セックスの名のもとに暴力行為を働いたり、ピアスやタトゥーを入れることを建前に人を傷つけている、といった突飛な見解を盾に、警察はあらゆるゲイクラブやボディアート作家を摘発したのである。ジェネシスやTOPYに限らず英国アンダーグラウンド・シーンにおける伝説的彫師、ミスター・セバスチャンことアラン・オーヴァーズビーも、87年以降はお尋ね者になってしまった。 92年、カトマンズを経由して米国へと逃げ込んだジェネシスは、プロデューサーであり、レーベルAmerican RecordingsとDef Jamの創立者でもあるリック・ルービンとPCFJについて話す機会を得た。二人は当時新作のコンセプトを模索していたSkinny PuppyにもPCFJの情報を共有し、Skinnyのニヴェック・オーガはこれに興味を持った。96年にAmerican Recordingsから発表されたSkinnyのアルバムに『The Process』の名がつけられたのは、こうした経緯があってのことだった。わかりやすいことに、このアルバムには「cult」という曲さえある。 PCFJへの興味関心はアルバム1枚にとどまらず、ジェネシスとニヴェックらは新しいネットワーク、その名もThe Processを形成した。これは超個人的カルトとして個々人の活動にフィードバックさせていく知的な繫がりであり、ジェネシス曰く「目的は組織ではなく、個人の現実を直視すること」だった。ジェネシスにとっては、ウィリアム・バロウズやロバート・アントン・ウィルソンらが提唱していたような「コントロール」の認識とそこからの解放、そしてTOPYのネクストステージを目指すものであった。 97年にモーリー・テリーが獄中のデヴィット・バーコウィッツと対面取材したことで再びサムの息子事件に注目が集まった。だが、それも一過性のものに過ぎなかった。警察は相変わらずモーリーを「捜査の素人」と罵るだけで、背景にカルトがいたことと、現在にもそれが潜んでいることを認めようとしなかったのだ。だが仮に警察が捜査体制を改めて真相究明に励んでいたとしても、(モーリーの満足する)「真実」が明るみに出ていたとしても、この時点で『The Ultimate Evil』を巡るカルト・ヒステリーに育まれた地下文化やメインストリームにも浸透するバッド・テイストの発展と拡散は止められなかったであろう。 参考文献 Adam Parfley and more /『Apocalypse Culture』 Maury Terry / 『The Ultimate Evil』 Boyd Rice / 『Last Testament of Anton Szandor LaVey』 David Keenan /『England's Hidden Reverse』 『Have a nice day!』 interview of Boyd Rice 2016年にはPCFJのドキュメンタリーも製作されている。 |
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