『The Ballad of Shirley Collins』ブルースからアポカリプティック・フォークまで

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米国民俗学史全体の功労者とも呼べるアラン・ローマックスのフィールドワーク-レコーダーによって対象となる歌い手たちとその空間を記録すること-は、父・ジョン・ローマックスの補佐をしていた30年代からはじまり、やがて50年代から60年代にかけてのフォーク・リバイバル運動にも多大な影響を与えた。彼は「民俗音楽学」を明確に定義することで、フォーク・ソング(またはトラッド・ソング)を一種の研究的行為にした。いわく「研究者と民俗共同体の親密な接触を通して実現されるもので、研究者側が代弁者としての責任を負うもの」。つまり歌と口伝によってそれが受け継がれていく構図を包括して「フォーク」と呼ぶことである。米国の赤狩りから逃げるため、50年代に入ると同時にヨーロッパへ渡ったローマックスは、フランスやスペインなどヨーロッパ諸国のフォークを収集し、大量のLPとして発表する。これらの記録は一観察者としてではなく、対象のコミュニティに同行・同化することで信頼を築いた結果であり、ローマックスがハンター・トンプソン的ジャーナリズムの先駆にも思える所以である。
59年8月から10月にかけて、ローマックスは米国南部の民俗音楽を記録するべくバージニア州やミシシッピ州のアフリカ系アメリカ人コミュニティを巡った。一部の宗教的コミュニティを除き、その地で歌っていたのは奴隷として働く労働者たちであった。このフィールドワークに同行していたのが、当時24歳だったシャーリー・コリンズである。英国のサセックスで歌っていた彼女は、歌手ユアン・マッコールのパーティでローマックスと出会い、帰国した彼から米国南部へ来るように誘われたのだった。

コリンズにとって転換点となったこの南部巡行の59年と、リタイアを経て35年ぶりにアルバムを発表することで復活した2016年を二本の軸にしたドキュメンタリーが『The Ballad of Shirley Collins』(2018)である。長いブランクからの復活と、世代の異なる歌手との対話、二つの意味で過去と現在が接続され、フォークという伝承行為の実例を提示している。

コリンズたちはミシシッピ・フレッド・マクドウェルやアルメダ・リドルなど、後のブルースの伝説的歌手たちの「営み」に触れた。彼ら彼女らはパフォーマンスやアートではなく生活の一部として歌い、そこでは自分たちの(苦難と労働の)日常が主題となっていた。奴隷労働者たちが自分たちから歌を生み出す姿に感銘を受けたコリンズは、英国へ戻ってからアングロ・アメリカン的でない「英国の」歌を追求するようになる。ローマックスの父親であるジョンは南部のブルースを通して欧州系移民由来のものではない「米国独自の民俗」の存在を強調していたが、英国一つを例にとってもデーン人(北方系ゲルマンでデンマーク人の祖)やケルトがあるように、欧州もまた複合的な民俗があり、それらは小さくアレンジ(誤読と書き換え)を重ねて歌い継がれてきたものだった。コリンズは純粋性や独自性を重視せず、これらのフォークが歌い継がれ続けている事実に目を向けた。表面的に変化があっても本質的に変わらないメッセージがあり、それぞれの時代を生きる歌い手たちの物語(フォーク)になっているのだ、と。この思考に至った理由は当然米国南部の当事者たちと出会ったゆえ、だろう。
イギリス諸島の人里離れた島に伝わる歌などを収集したコリンズは、楽譜が読めないことから姉のドリーを頼って、これらの失われていく歌を「保存」した。それらはコリンズ自身のレパートリーにもなり、59年に彼女はローマックス経由で揃えたバッキングをもって、当時のフォーク・リバイバル重要作に数えられる『Sweet England』を録音した。余談だが、ドリー・コリンズはThe Incredible String Band『The Hangman's Beautiful Daughter』にも参加しており、ポップの市場に近かったグループにも影響を与えている。

19世紀末から20世紀初頭にかけて英国フォーク研究の下地を作ったとされるセシル・シャープは、フォークを歌う人々を「庶民」(common people)と定義した。端的にいえば、農夫などの(裕福な階級の生まれだったシャープから見た)労働者階級である。シャープは自著『English Folk Song, Some Conclusions』(1907)の中で「文学と詩の才は庶民たちのバラッドと物語にある。その霊的・神秘的な感覚は彼らにとっての神話と伝説のものなのだ」と、反近代的(時代や裕福な出自であったシャープの視点を考えれば無理もないが、若干のエキゾティシズム的)を意味合いを含んだ文を残している。階級を介したシャープ的視点は歌い手の移り変わりとともに薄れていくのだが、コリンズの世代はこの性格に関してまだまだ自覚的だったようである。彼女は2020年に行なわれた『Paste』のインタビューで以下のように答える。


今日では「フォーク」という言葉が間違って使われていることに怒っています。これらフォーク・ソングを歌う上で重要な点は、それが多くの歴史、一般的な労働者階級の人々の歴史であることです。どんな時も働き、戦い、戦争を生き抜いてきたのは労働者階級なんです。これは彼らの音楽であり、それに敬意を表して記憶に留めておかなければならないと思います。

言葉だけでは受け止められない人々の精神、霊性とも呼べるそれが受け継がれていくという意味ではフォークも一つの秘教である。そんな答えを出すことを許してくれるのが、コリンズの復活を後押しした一番の功労者がデヴィット・チベット(Current 93)であるという事実だ。『The Ballad of Shirley Collins』(エンドロールの最後には「チベットに捧ぐ」とまで表示される)で行なわれる二人の対話では、チベットがコリンズの歌ひいては脈々と続く英国(とキリスト教が伝来するよりも前のケルトその他異教の)フォークが持つ普遍性を説き、この矛盾に満ちた世界を照らす松明であるかのように称える。無残な最期を遂げた人々の悲劇的なストーリーが綴られている歌には、嘘偽りが満ちているこの世界に生きる人々の心を開く、チベットいうところの「ウィリアム・ブレイク的な美しさ」があるのだと。カトリックであるがゆえにキリスト教義の矛盾と対峙し続けてきたチベットは、クロウリー主義、コプト、グノーシズム、古代バビロニアの叙事詩など、キリスト教の周縁からその誕生以前にまで遡ることでフォークを変様させていく。それは研究であると同時に啓蒙の域にも達している。
先にも述べたが、セシル・シャープによるフォークの歌い手としての「庶民」という定義は、そこに階級という線が引かれていることを考慮して現在は使用が控えられている。しかし、ブレイクの詩が権力(「Jersalem」では産業革命によって変わった英国)とその下で生きる民衆を描写したこと、チベットと当時の仲間たちによって提唱されたアポカリプティック・フォーク(異教的世界観をもった詩)なる概念が、これまたチベットたちと切っても切り離せないネオフォークのようなネオ・ペイガニズム運動の一翼へ繋がっていくことを踏まえれば、「かつて淘汰されたもの」の声がフォークをフォークたらしめることは無視できない。この現実があってこそアポカリプティック・フォークが説得力を持ち、コリンズの歌、彼女が米国南部で出会ったブルース(かつて白人から悪魔の音楽と称された「うた」)、ブレイク「Jersalem」のような理想郷賛歌までをも民俗学としてのフォークという一線上に配置する。

Sol InvictusからThe Wainwright Sistersのようなグループもカヴァーした「Lamkin」(シャーリー・コリンズ『Loadstar』には「Cruel Lincholn」として収録)は、突然やってきた男に赤ん坊を殺されてしまった母親の一夜を描く。殺されてしまった赤ん坊の鎮魂というよりは、残された(あるいは共に殺された)母親の悲哀が表現された詩。この傷ついた生の描写はコリンズが米国南部で出会ってきた奴隷たちの労働歌と通底している。

コリンズは2020年にもアルバムを発表している。収録曲「Whitsun Dance」は、最初の結婚相手だったオースティン・ジョン・マーシャルがトラッド「The Week Before Easter」に独自の詩をつけたもので、その内容はペンテコステ(イースターから数えて7回目の日曜日)に今はいない家族または恋人の記憶、かつての日常に耽るものである。パンデミック下に聴くことで本来の詩にはなかった意味が宿り、フォークがその時代の精神を映し出す鏡としての役割を果たす。



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(21.5/26)