アンドリュー・マッケンジー(The Hafler Trio)は情報と戦っている

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拙著『ナース・ウィズ・ウーンド評伝』(DU BOOKS刊)にはNurse With Wound以外にも、80年代ロンドンのアンダーグラウンド・シーンで活動していたアーティスト/バンドの名が挙がる。アンドリュー・マッケンジーと、彼のプロジェクト「The Hafler Trio」についてはほぼ言及しないままだったので、補完もかねて今回は同氏について書いた。
参考資料として最も有益であったのは2020年に公開されたメディア『Tone Glow』内のロング・インタビューである。本記事と重複する内容も多いが、なにぶん長いため、日本語化もかねて情報を整理したと考えてほしい。

コンセプトとムーレンビーク博士

「音響研究者」のような肩書が添えられがちなアンドリュー・マッケンジーだが、その出自は所謂アカデミックなものではない。好きなレーベルはジェスロ・タルなどをリリースしたChrysalis、最初に買ったレコードはスパイク・ジョーンズ。周りには年相応の不良や年上のドラッグのディーラー。父親は元警察官で、アートが身近にあった家庭ではなかった。しかし、ブライアン・イーノとロバート・フリップによるアルバムによって、音楽に「コンセプト」が存在することを意識した。音楽は思索の象徴であり、あらゆる分野への言及を果たしているのだ、と。当時イーノがライナーノーツやインタビューで言及していた事柄を理解できたわけではない。しかし、これらのコンセプト(サイバネティクスからサティの家具の音楽まで)、それをそうたらしめる疑問と仮定が、The Hafler Trioの音響研究の下地になっていることは間違いないだろう。
また、イーノとフリップの『Evening The Star』が、表面的にプログレッシヴ・ロックの体から離れていたことも大きかった。そこにあるアンビエンスは修練を感じさせる演奏がなく、何が音を鳴らしているかも不明瞭な体験だった。マッケンジーにとってはパンクより早かったパンク、(表向きは)脱プロフェッショナルという精神に触れたひと時であった。

マッケンジーはスコットランドで生まれたが、家族はすぐにニューキャッスルへと移住した。彼はこの都市の60~70年代について、文化的には退屈だったと回想している。少し南に位置するマンチェスターやシェフィールドのように労働者層の厚い工業都市にはよくあることだったのだろう。しかし、ジョン・ピールのような物好き兼理解者がラジオで放映する風変わりな音楽によって、自主製作・自主リリースの波がニューキャッスルにも届いていた。特にマンチェスターのFactoryはニューキャッスルに住むパンクスにとっても手本の一つであり、地方からでも独創的なものが生まれるという実例だった。
14歳だったマッケンジーは、ドラッグの流通による利益を洗浄する名目でレコードを作りたがっていた友人と共にFleshというパンク・バンドとして一枚のシングルを作った。流通した枚数はほんのわずかだったが、どこで耳にしたのかThe Clashのポール・シムノンはこのシングルを気に入り、バンドがニューキャッスルで公演する際のサポートにFleshを指名した。シングルはミリー・スモールの「My  Boy Lolipop」を冒涜的にカヴァーしたものだった。このアイデアからは当時のマッケンジーが驚いたThe Residentsの影響が強くうかがえる。彼らのファースト・アルバム1曲目「Boots」は、言われない限りは誰も気付かないであろうナンシー・シナトラのカヴァーだった。

Fleshがサポートした数少ないバンドの一つがキャブスことCabaret Voltaireだった。すでにRough Tradeからアルバムをいくつか出していたキャブスだが、82年の『2x45』を最後にクリス・ワトソンはバンドから脱退し、シェフィールドを離れてニューキャッスルへと住まいを移した。以前から手紙でやりとりをしていたマッケンジーとワトソン(文通からメールアートにいたるネットワークは当時のローカルとローカルを繋ぐ唯一の要素だった)は、こうして対面することが叶った。ワトソンはニューキャッスルのテレビ局に就職し、その一方で英国王立鳥類保護協会でも働いた。後者における彼の仕事は、絶滅が危惧されている鳥の鳴き声を記録することだ。後にBBCの音響担当となり、多数のフィールドレコーディングを発表していく成り行きがここにある。
バンドを脱退した時の疲弊が残っていたのか、ワトソンはレコードを作ることに抵抗を抱いていた。その代わりに執心したのがラジオであり、ワトソンは常々魅了されてきたこのメディアで実現できるアイデアを思案していた。ジョン・ピールのDJから海賊放送まで、ラジオはパンクな音楽(≠パンク・ロック)へと続く入り口だった。たとえば、ワトソンはキャブス在籍時代にラジオ4で耳にした「The Singing Bowls of Tibet」に心を奪われた。これは科学者アラン・プレセンサーがチベット密教の儀式で使われる鈴のサウンドを延々と流し続けるレコードだ。

マッケンジーにとって、ラジオは未来とノスタルジアの二つが共生する空間だった。スパイク・ジョーンズの音楽や、かつて耳にしていたラジオドラマ『The Goon Show』(『Monty Python』のはしりともいえるコメディ番組)は、バグパイプによる疑似的な車のエンジン音など、不思議な音に満ちていた。Fleshでミリー・スモールをカヴァーしたこと、Nurse With Woundによるオールディーズ交響曲『Sylvie and Babs』の制作に関与したこと、そして後にHafler Trioとして編み出す不可思議な音響に至るまで、彼の軌跡のあちこちにラジオの存在を見出すことができる。

スパイク・ジョーンズによるオールディーズのカヴァー。NWW『Sylvie and Babs』A面のタイトルはバーナード・クリバンのイラスト内で歌われる一節だが、この曲のことも頭にあったことは間違いない。

やがてワトソンとマッケンジーのもとに海賊放送局内の枠を使って何かしらの音源を流す機会が訪れる。これは同じく海賊放送に熱心だったリチャード・H・カークからの提案で、当時カセットマガジン『Morrocci Klung!』を発行していたロブ・ピアースのチャンネルで行なわれる予定だった。しかし、スケジュールの不都合なのか、なかなか放映にまで至らないことに我慢できなかった彼らは、結局音源をLP『"BANG" - An Open Letter』としてリリースする。版元はキャブスのレーベルDoubleVision、そしてレコードの名義はThe Hafler Trioだった。
この名前はLPをマスタリングする時にマッケンジーが手に取った雑誌の一記事がヒントになっている。そこにはデヴィット・ハフラーという音響技術者と、彼が開発したオーディオ・システムについての記述があった。ハフラーが考案した4スピーカー・システムは安価かつ家庭での再現が容易なことで、50年代のオーディオ界にちょっとした衝撃をもたらしたとされている。マッケンジーの主張によれば、ブライアン・イーノの『Discreet Music』や『Music For Airpots』らコンセプチュアルなレコードの背景にはハフラーのアイデアがあるのだという。

『BANG』のクレジットには「All material by The Hafler Trio」と書かれている。「compose」や「written」といった表記がないことは、トリオが作曲ではなく実験に取り組む一種の機関であるイメージを早くも決定づけた。トリオの構成員はマッケンジー、ワトソン、そしてエドワード・ムーレンビークなる人物で、一切顔出しすることのないムーレンビーク博士は30年代から存在するという音響研究機関Robol Sound Recordingsに所属しているとされた。
長らく謎だった(あるいは深く考えないように扱われていた)ムーレンビーク博士だが、2020年になってマッケンジーは彼を「フィクションであり、フィクションでない」と告白している。マッケンジーいわく、ムーレンビーク博士はそれまでに自分が見聞きしてきた人々の集合体なのだそうだ。


「小説家がやるように、気に入った人々を一人の人物としてまとめ上げた。クレジットにはすべてのマテリアルはHafler Trioによるものだと書いてある。『彼が実在してない』という声に答える必要はないというわけだ。小説家に同じことが言えるだろうか!それはフィクションだが、確かに現実を有している。偉大な小説に書かれていることは作り事だが、そこには真実がある。」  

真実(ストーリー)によって聞こえてくる音もある。ムーレンビーク博士のように実在の可否を通り越して「概念的に参加するメンバー」について考えると、「作品を取り巻く言説は、作品以上に重要である」というウォーホル~The Residents的アティチュードを思い出してしまう。しかし、重要なことはHafler Trioが持ち出した偽りが、個人的体験としての真実を寄せ集めたものだったことだ。これはブライアン・イーノが自分の興味関心に対してオープンであったことと離れていない。たとえば博士のモデルの一人であるシェフィールドの消防士(ワトソンの友人だった)はマッケンジーいわく、生まれついてのダダイストのような男であり、今日まで「歴史」に記録されていない天然のアーティストなのだという。彼の父親が所持していた物件の屋根裏部屋がデビュー前のキャブスの実験場となっており、さらに彼が消防署からくすねてきた防火訓練用の映像はキャブスのショーにスライドとして流用されていたというのだ。
人物が個々の事象へのハブとなり、歴史にない歴史を浮かび上がらせる。ムーレンビーク博士が証明したことは、「歴史は虫食いのまま真実になっている」ということだった。

重要なのは個人ではなく、その人が果たした「結果」である。Hafler Trioがレコードに自分たちの写真を載せないことも、コンセプトの提示こそすれど「解説」をしないことも、すべてはこのポリシーに起因している。彼は音楽でいえばゲオルギイ・イヴァノヴィチ・グルジェフのピアノ演奏「Holy Affirming, Holy Denying, Holy Reconciling」を至高の例として、どことなくショーペンハウアー『読書について』を思わせる論を展開する。


「この曲にはグルジェフの哲学のすべてがある。しかし、その哲学が何を意味するかを知る必要はない。セオリーを並べただけじゃない、言葉を介さずに生きているリアルな教示を現実に感じることこそ必要なのだ。
(中略)どんな芸術でも、作家の人格をベースにすると表現できるものが限られてしまい、多くが失敗してしまう。重要なことは(人格で)創造の邪魔をしないことだ。ベストなアーティストは、創造的なプロセスが本来見せる働きを損なわない。ラジオに例えるなら、ラジオを買う目的は番組を聞くためだ。ラジオそのものが電波に干渉したらまともに番組が聞けなくなるだろう。だから私のレコードには参加した人間の写真さえ載せていないんだ。そんなものは必要ないのだから」


LSDを発見したスイス人化学者アルバート・ホフマンは人間とそれが認識する現実の関係をラジオに例えていた。マッケンジーにとって(音楽・アートワーク・テキスト含めた総体)レコードとは、LSDのように未知の領域を知覚するためのきっかけにすぎない。ドラッグを服用する時、生産者に思いを馳せる人はそうそういないだろうから。

Touch

Touch最初のリリース『Feature Mist』(1982)。カセットに50ページほどの冊子が付いてくる。86年の再発には付いてこない。

ムーレンビーク博士はある意味マッケンジーの個人史そのものだった。マッケンジーの人となりを調べるということは、それだけムーレンビーク博士に近づくということだろう(もっとも、90年代からは博士の名前は出てこなくなるのだが)。点と点の構図でシーンを俯瞰する癖がついている我々は、当事者たちの証言(時間の経過によって多少のズレが出てくるのはさておき)内で意外な人物や出来事が語られるたびに驚かされる。マッケンジーもその手の話に事欠かない。たとえば当時ニューキャッスルに住む大学生だったデヴィット・チベット(Current 93)にNurse With Woundのファースト・アルバムを聞かせたのは、当時Virgin Records支店で働いていたマッケンジーだった。その後ロンドンを訪れる機会が増えたマッケンジーは、Current 93やPsychic TVらインダストリアル魔術派の製作面にも関与するようになった。Whitehouseの最初期のライヴをサポートしていたことも見落とされがちだが重要な事実で、当時もっともハードコアな音響の一つとされていたパワー・エレクトロニクスをスティーヴン・ステイプルトンともども支えていたことになる。

マッケンジーのキャリアの中でも特筆に値するのは当時大学生であったジョン・ウーゼンクロフトとの出会いだ。ウーゼンクロフトはシェフィールドのキャブスやHuman Leagueがやっていたようなオーディオとヴィジュアルを融合させたパフォーマンスに興奮するアーティスト見習いで、例にもれず非利潤追求型レーベルの筆頭であるFactoryに恋をしていた。The Residents愛好家としてマッケンジーと繋がったウーゼンクロフトは、82年3月に出会ったデザイナーのマイク・ハーディングとゲイリー・ムアートが思案中だった自分のアイデアを実現させてくれると確信する。それが82年12月に販売されたカセットブック『Feature Mist』だった。
Les Disques Du Crépusculeが80年に出した『From Brussels With Love』(『ブリュッセルより愛をこめて』)にインスパイアされたとおぼしき本作にはNew Order、ロバート・ワイアットのインタビュー、Tuxedmoon、ショスターコヴィッチ、マヤコフスキーの詩、ヴァル・デナムの朗読などが収録されている。特筆すべきはNew Orderで、マネージャーであるロブ・グレットンに直談判して手に入れた20分越えのインスト曲を2つに分割した「Video 586」は来る「Blue Monday」およびテクノ時代の先駆けとなった(97年にバンドがフル尺をCD再発)。

この采配によって、Touchはスタイルの模倣が飽和状態にあったポストパンク・シーン内でのエピゴーネン化を回避できた。濫造に加担するのではなく、溢れかえった情報から本質的に価値あるものを選び抜くということだ。ウーゼンクロフトは2012年のインタビューで己のポリシーを説明する。


「Touchという名前は、触覚が大きなポテンシャルを秘めていることとつながっている。音楽を依頼する時は、先方ににいくつかのテキストや写真をイメージとして差し出す。写真を頼む場合は音楽だ。制作のなかではこうしたイメージの補完と接続が行なわれている。」  『The Liminal』より

音楽とテキストは同格であり、受け手は提示されたそれら情報を自分たちで組み立てなければならない。能動的になることを迫るTouchのアティチュードと、創造的な行為としての編集を重要視した姿勢は、日本でいえば『ロック・マガジン』誌主宰だった阿木譲にも通じている。Touchが85年にリリースした『Ritual』シリーズはカセットに100ページ超えの分厚い本が付いてくるもので、この冊子はページごとに異なる用紙を使用している。これは81年からの所謂第三期『ロック・マガジン』のいくつかの号と近い仕様であり、興味深い共通点だ。
音をテキストで、あるいはテキストを音で表すTouchの越境的なポリシーは秘匿的なHafler Trioにとってもふさわしい舞台だった。マッケンジーはサバイバリスト文学、オルタード・ステーツについての講演や陰謀論めいた文章のコラージュをライヒ的に反復させることで、Throbbing Gristleや彼らのレーベルから出たウィリアム・バロウズのレコードが指した「情報戦」とその生き抜き方を研究し続けた。86年の冊子付10インチ『The Sea Org』はその典型で、オーディオ、ヴィジュアル、テキストの3つからなる総合メディアとしてのHafler Trio、その自己紹介といえる。
さらにマッケンジーはTGの瓦解から生まれたグループの一つ、Psychic TVやCurrent 93周辺(Hafler Trioは後者が舵取りを行なったL.A.Y.L.A.H.レーベルからもいくつかLPを出している)のオカルティック・シーンにも片足を踏み入れており、自然と科学を繋ぐ「魔法」(magick)を、霊界通信に挑んだエジソン的にアウトプットするメカニックとなった。89年にはジェネシス・P・オリッジと共に、敬愛するブライオン・ガイシン考案のドリーム・マシーンのレプリカを作ったし、ヒットを飛ばす前のHuman League時代に全自動歌詞製造マシーンを開発していたアディ・ニュートンとは90年代にアルバムを一枚発表している。これらの取り組みが意味するのは、ポストパンク時代に隆盛を極めた、エレクトロニクスを経由してのテクノロジーへの興味関心は、マッケンジー(とコラボレーターたち)にとっては一過性のトレンドではなかったということだ。
Hafler Trioからクリス・ワトソンが抜けた後でもトリオはトリオとして存在し続け、ジョン・ダンカンやZ'EV、フルクサス作家ウィレム・ド・リダーらとの実験が続けられた。しかし、そこから生まれたノイズやドローンの実験的音響は、90年代から目覚ましいペースで登場する新しい電子音楽におしのけられてしまったのは否めない。少なくとも、根城にしていたTouchにおいてはそうだろう。レーベルはFennesz、Pita、池田亮司などのエレクトロニカ・アーティストによって同ジャンルの中心地となっていった。94年の『How To Reform Mankind』などはトリオの音源でも飛びぬけて美しい。しかし、コンポジションとコンセプトそれぞれの意味でミニマムを追求した果てに最も過激な音となった池田亮司の『+/-』と比べると、テキストやコンセプトと一体であるトリオの音響が退屈で無駄口が多いように思われてしまうのは仕方のないかもしれない。
新鋭たちと入れ替わるようにトリオはTouchからのリリースを途絶えさせ、インダストリアルを原風景とするドローン派が集うDie Stadtなどを渡り歩いた。2008年に実現したAutechreとのコラボレーションも、彼らがCOILのフリークであったことと無関係ではないだろう。本作が90年代のTouchが出ていたら歴史は少し変わっていたかもしれないが。
2017年の時点でマッケンジーはTouchと決別した旨の発言を残している。「レーベルは私にかなりの借金があり、それらは支払われることはなかった」と彼は話しているが、これはそのままの意味でお金を指しているのか、あるいは比喩なのかはわからない。

アイスランド・シーンを変えた男

Touchの変容と快進撃を見ると、マッケンジーがレーベルに果たした貢献は80年代に限られたように思える。しかし、彼は間接的に90年代からのTouchを形作っていた。アイスランドの音楽家たちとレーベルの接続である。Psychic TV~Current 93に出入りしていたアイスランド音楽の大家にしてネオ・ペイガニズム協会アサトルの高位司祭、ヒルマー・オーン・ヒルマーソンはHafler Trioとしての録音にも参加し、逆にマッケンジーがヒルマーソンのプロジェクト、Frostbiteのリミックスを手がけることもあった。トリオの『FUCK』はヒルマーソンとズビグニフ・カルコフスキーがエンジニアとなった作品で、「最大音量」で再生して自発的にウォール・オブ・サウンドを作らせる意向をとった逆転のアンビエントであった。マッケンジーの関与こそないが、ヒルマーソンがデヴィット・チベットたちと協力してリリースしたハリー・オールドフィールド博士の「電子結晶療法」に基づいて作られたドローンは、まさに科学と自然の融合に踏み入った魔術的録音成果である。

Touchは96年にヒルマーソンの大仕事、『Children of Nature』のサウンドトラックをリリースする。これにより本国ではすでに知られていたヒルマーソンの名は世界中に知れ渡った。ウーゼンクロフトたちがヒルマーソンの音楽に惚れたことは間違いないだろうが、彼がビョークたちの世代における偉人であることも算段のうちだったのかもしれない。理由はどうあれ、90年代以降のアイスランドの音楽シーンと、エレクトロニカ~モダン・クラシカル大手というTouchのイメージは不動のものとなった。ビョークはこの関係が表立つ前から、マッケンジーがアイスランドが来るまでは同国にエクスペリメンタルと称される音楽はなかったと公言している。いうなれば、ヒルマーソンが耕し種をまいた土地に、マッケンジーが異質な水をやったということだ。

その成果となる作家たちは今日でも名を残し続けている。本国のロカビリーのようなバンドだったというstilluppsteypa(スティルアップステイパ)は、マッケンジーにNurse With Woundを聞かされたことによって様変わりし、特定の楽器を想起させないアブストラクトなサウンドを手に入れた。彼らは日本のmemeからもリリースし、Touchが中心となった実験音響の世界の住人となっている。Sigur Rósのヨンシーことヨン=ソル・ビルギッソンはマッケンジーと2枚組CD『Exactly As I Say』を制作した。近年最大の交誼と呼べるのはヨハン・ヨハンソンで、彼の実績は名前を検索するだけでもわかるものだろう。オーディオとヴィジュアルの融合にこだわっていたTouchが映画音楽で大成することは自然の成り行きに思える。『Tone Glow』でマッケンジーはヨハンソンについて述懐している。
「アイスランドに移ることも、そこにいる人々にレコードを教えるなんてことも想像だにしなかった。彼らがそれらを吸収し、大きな影響を与えていくような存在になることも。(中略)ヨハンに『Jesus’ Blood Never Failed Me Yet』(ギャヴィン・ブライアーズが75年に発表した楽曲)を聞かせた時のことを、それを耳にした時の彼の顔を覚えている。それが彼のエモーショナルかつ実験的な側面を持つ音楽を作るきっかけになった。それまでの彼にはないものだった。誤解を招きたくないので言っておくが、彼自身もそんな音楽になることを予想だにしていなかった。」

情報渦中を生き抜く

アイスランドを離れた次にラトビアへと移住したマッケンジーは、あらゆるレーベルとの提携をいったん解消した。今日でも(ごくわずかにアップロードされているBandcampアカウントを除いて)Hafler Trioの音源はデジタルで販売・公開されていない。マッケンジーは、mp3がトリオの実験にもっともふさわしくないフォーマットと主張している。
「mp3は考案者が失敗を認めている。そのようなフォーマットを受け入れる理由は今の私にはない。mp3というアイデア自体が間違いだとは言わないが、あれは音からアートワークを切り離してフィジカルな意味で音楽を解体し、そのうえサウンドそのものを劣化させてしまう。私が行なったことを改変し、やがて破壊してしまうものなのだ。現状が合っている人もいるだろうし、それについては何も言うことはない。状況を変えられるかはわからないが、今はただそこに参加する気はないというだけだ。今の私にとってはSimply Superiorで開いているワークショップと対面式カウンセリングの方が大きな価値を持っている。」  2017年『Data.wave』インタビューより

Simply Speriorは2000年代末にマッケンジーが設立した、レーベルというよりは彼への窓口となる機関あるいはシンクタンクだ。彼はここを経由した声にのみ反応し、現在はセルフ・メディケーションのワークショップと複数人を対象としたカウンセリングに取り組んでいる(COVID-19のパンデミック下までは)。SNSの簡易すぎるアクセス性にも消極的だったマッケンジーにとって、Simply Speriorの「現場」かつ「少人数」による繋がりはベストな選択だった。手段の目的化に陥ったニューエイジ運動の失敗例のことが頭の中にあるのだろう。彼はこの決断を「もっと個人的であり、もっとタフにならねばならない」と説明している。80年代前半に周囲のアーティストたちと共有していたサバイバリズムを思い出させる発言だ。Simply Speriorで行なわれるセラピーはマッケンジーによる音楽が使われるそうだが、それもあくまで手段であり、実践の一部に過ぎないようだ。前半で述べたグルジェフのくだりを今一度読んでほしい。

一部のレーベルがマッケンジーに無許可でカタログを再発していることもあり、The Hafler Trioは商業的であることから離れ始めた(最初からそうだったのだが)。マッケンジーは意思表示として、あらゆるシーン、あらゆる関係から距離をとり、Simply Speriorという場で自身のバランスをとっている。その秘匿的態度とトリオをとりまく謎はインターネット上でもあまり取りざたされていないままだが、マッケンジーの研究領域がインターネット発のトレンドと少しだけ重なったことは興味深く、これが筆者のマッケンジーに対する関心をより高めた。マッケンジーがかねてから収集し、解剖していた音響実験やフィールドレコーディングの音源が掘り起こされた2010年代からのニューエイジ・リヴァイバルはその好例だろう。2013年のコンピレーション『I AM THE CENTER : PRIVATE ISSUE NEW AGE MUSIC IN AMERICA 1950-1990』は1曲目がマッケンジーの精神的指導者、グルジェフだった。皮肉なことにこれらニューエイジとくくられた過去の音源の多くはmp3ブログなど、マッケンジーが嫌悪する領域で少しずつ波及していったのだが・・・。それはともかく、現代のニューエイジ・リヴァイバルについては識者の論考を参照してもらうのが手っ取り早い。『ニューエイジ・ミュージック・ディスクガイド (環境音楽、アンビエント、バレアリック、テン年代のアンダーグラウンド、ニューエイジ音楽のルーツまで、今聴きたい音盤600選)』(2020 DUBOOKS)や、以下の記事は必読。
ヒーリング・ミュージックの進化と叛逆〜テン年代ニューエイジ・リバイバルは如何にして発生したか〜
ニューエイジ・リバイバルはどこから来たのか/レア盤のラスト・フロンティア

マッケンジーはリヴァイバルに便乗した再発に手を出すこともなく、同世代のメディア・アーティスト、ヴィッキ・ベネット(People Like Usにして、Psychic TVにも出入りしていた)のようにインターネット上のファイル共有によるギフトエコノミーを信じることもなかった。彼は依然として「求めよさらば与えられん」を地で行く、寡黙で秘教的な態度をとり続けている。言い換えれば、ウィリアム・バロウズとブライオン・ガイシンまたは設立当時のTouchが取り組んでいた、溢れかえる情報との戦いに身を費やしているのだ。

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(21.2/19)