Caesura Boyd Rice interview (2020)

ノルウェーのオスロで2020年3月に開かれた抽象画の展示(もともとは2018年にニューヨークで開かれる予定が抗議を受けて中止)が終わってみれば、今度はCOVID-19パンデミック。さらに米国ではアフリカン・アメリカン系男性ジョージ・フロイドの暴行死をきっかけに暴動がおこる。混迷の2020年、6月に行なわれたインタビュー。原典はこちら


-弊メディアのローリー・ロージャスはあなたの「中止された展示」を取り上げる予定でした。展示は2018年のニューヨークでキャンセルされて以来、2020年のオスロでようやく開かれましたが、この巨大な抽象画がこんな事態を引き起こすと想像できましたか。

騒ぎを引き起こすことはいいんだが、問題は誰も展示された絵を見ていなかったということだ。オープンする前に展示はキャンセルされたのだから。前夜にオープニング記念のパーティーを開いていると聞いただけで、連中は会場のグリーンスポン・ギャラリーを荒らしに来て、オーナーのエイミー・グリーンスポンに「もし展示を開くのなら、あんたはこの業界にいられなくなるだろう」と言ってきた。それまで彼女はそんな目に遭ったことがなかったので、ひどく怯えていた。

何年か前にニューヨークで個展をしたときは何の問題もなかったから驚いたよ。The Strandという高名な書店でサイン会をしたこともあったが、その時だって何も起こらなかった。「ニューヨークの人々は洗練されているから、何も気にしません」と言われたことさえある。

押しかけてきた連中は武闘派的リベラルだが、それでいて権威主義的な傾向が強いというパラドックスがある。私は誰にも検閲されたくないし、誰かを検閲するようなこともしたくない。私のことを一種の暴君と思っている人がいるのは不思議だし、こうしたやり方がその対処法だと思っていることも然りだ。

-あなたのアートについて。抽象画を描き出したのはいつからですか。また、キャリア全体での位置づけも教えてください。

絵を描き始めたのはハイスクールを中退してからだ。歳をとるにつれてアーティストになりたいと思うようになったし、20世紀初頭の芸術、未来派、ダダ、シュルレアリスムなどをよく調べていた。歴史や作家の評伝・伝記にはあらかた目を通して、やがて自分で油絵を描いてみることにした。絵を上手に描くこと自体はできる。しかし、それは自分のテイスト、パーソナリティを反映しただけにすぎないので不満だった。そこから、この抽象画を描くテクニックを思いついた。当時は写真を使った表現も試していて、この技術がきっかけとなったといえる。
私の作品の多くは抽象的かつ自由に作られている。見る者の本能的な想像力に訴えかけるところは共通してると思う。

-中止された展覧会で共に参加する予定だったダージャ・バジャジクとあなたの作品で共通するものは?

私見だが、彼女の作品はとても個人的で彼女自身を反映したものだと思う。そして私は個人的でない。表現するにあたって、自分のテイストや興味の副産物になってしまわないようにしている。私も彼女もアウトロー、世間一般に反逆的な人物だとみなされてのブッキングだったのだろう。私たちの仲は良いし彼女のことは好きだが、やっていることに共通点は少ないと思う。

-絵画だけでなく、音楽の世界でもあなたは有名です。過去のインタビューではパンク・シーンの端っこにいたと話されていましたが、あなたはシーンの一部にいたわけではありませんでした。70年代後半のパンク・シーンはどう見えていましたか。

私やスロッビング・グリッスルのようなアーティストたちはパンクのシーンに乗じていた。我々はアート・ギャラリーでライブしていたんだが、やがてパンクが起こると、ロックンロール・バンドが出る会場で従来のパフォーマンスをやってもお金がもらえるということがわかった。私たちはパンク以前から音楽をやっていたし、その頃は先ほど述べた絵や写真を作る時にやっていたことを応用して、自分が耳にしたことがないものを作りたかった。しかし、パンクが起こってからはライブ・パフォーマンスが(サウンドそのものから)曲をメインにしたものに変わってしまった。パンク・バンドの前座をやったりしたので、それ目当てで来た客はウォール・オブ・ノイズをかまされるハメになった。頻繁に暴動が起きたり、ビールのグラスが頭めがけて飛んでくることはしょっちゅうだった。

カリフォルニアのシーンはとても面白かった。当時の米国ではパンク・ロックが全く知られていなかった。いろいろなものが入り込んできて、珍しいバンドだらけだったよ。たとえばスクリーマーズはシンセだけのパンク・バンドで最高だったし、デッドビーツはビーフハートとパンクが出会ったようだった。しかし、確かに面白いバンドはいたけど、シーンとしては惨めなものだと思っていたけどね。パンクは偽りの反抗であり、そんな連中にとってのカウンターカルチャーだと感じていた。誰もがワルになろうとしていたが、彼らはワルじゃなくて郊外の子供に過ぎなかったんだよ。

-先ほども触れましたが、あなたは自分を80年代カウンターカルチャー内でどう位置付けていますか。あなたはスロッビング・グリッスルやカレント93、デス・イン・ジューンら「インダストリアル」または「ネオパンク」のシーンにコミットしていました。今日ではインダストリアルやニューウェイヴと呼ばれるものが形作られたあの時代をどう振り返りますか。

あの頃は一つの黄金時代だった。彼らとはみな親しい仲であり、地球上でもっとも面白い音楽をやっていると思ったものだよ。ほとんどが同じ世界観、オカルティズムへの興味を共有していた。私がこの分野に関心を持ち出したのは13歳からで、20代前半の頃に同じタイプの人々に出会えたことは幸せだった。でも、当時からこの魔法のようなひと時は長続きはしないだろうと思っていたよ。みなそれぞれの道を歩むようになったが、今でも連絡をとっている人はいる。

-あなたの音楽は60年代の超越的なサイケデリック・サウンドに敬意を払っていますが、あなたや友人たちは人間の秘める攻撃性、支配や破壊への欲求、ヒエラルキーなど一般には受け入れられないものにも興味を抱いていたと思います。60年代のヒッピーまたはカウンターカルチャーから抜け出そうと考えていたのですか。

その通り。なんとかしてそこから逃げ出したかったんだ。ヒッピー全盛の60年代、私は12~3歳だったけど、その時点であれらの運動が哀れなものだと感じていたんだよ。ヒッピー・ムーヴメントは弱く曖昧で、クラックまたはLSDの上で成り立つキリスト教のようなものだった。平和、愛、兄弟(隣人)愛とかいうくだらないものを掲げていたね。それが実現したことは一度もないし、これからも起きないと思う。

パンク・ロックはヒッピーへの反動的な現象だった。インダストリアルと呼ばれるシーンにいた人の多くも同様にそれを乗り越えようとしていたんだけど、私とその友人たちはもう少し知的で自己完結的な方法を模索していた。優劣、攻撃性、ヒエラルキーの概念は常に人生の一部であり、そこから目をそらしていると思いもよらぬ時に足を引っ張られることに気付いた。この世界は時として厳しく、醜い。それさえ理解していれば、最悪の事態が起きた時に備えられるだろう。
それは人生の影にあたる部分でもある。キリスト教徒はその二元性から私たちの作品を排除し、彼らのいう「光」にあたる部分へと向かっていく。しかし、人々が影を見据えて、その存在に折り合いをつけられれば、なんというか・・・

-より、まとまることができる?

そう、そうなるだろうね。

-80年代、あなたやスロッビング・グリッスルは変態的なトピックを介して挑発を試みていました。サドマゾやジェネシス・P・オリッジが体現したような非規範的ジェンダー・アイデンティティは、今日の主流になっているように見えます。

信じられないだろうが、TGが80年代に出した「Something Came Over Me」という曲はマスターベーションについて書かれたものだったんだよ。当時はパンク・ロックの世界の住人たちでさえわかっていなかった。シングルが出た時もみながグループをからかっていた。時代は変わったということさ。
カリフォルニアのパンク・シーンはとてもマッチョでホモフォビアだった。今日では認められるものではないね。私の友人のトム・ラーシャンは同性愛者で、彼をドラマーにしていたバンドのシンガーはそれを恥じていたな。トムは良いやつで、良いドラマーだった。
この50年、どれだけのものが変わってしまったか未だに信じられない。ほとんどが悪い方向へと進んでいる。

-ポピュラー・カルチャーもあなたが手を出してきた分野の一つです。音楽を作ろうと思ったきっかけが、バブルガム・ポップとリトル・ペギー・マーチ、そして70年代製のテープマシーンだったそうですね。2004年には悪名高い「Un Pop」の創設者の一人にもなっています。あなたの芸術とポップカルチャーの関係性とは?

私のアートとポップカルチャーはほぼ関係ないよ。しかし、その黄金時代に育ったことは大きな影響を与えているな。最近はポップアート・コラージュというシリーズを始めていて、これは二つの有名人の写真やサインをコラージュし並列するものだ。(モーリーン・マコーミック演じる)マーシャ・ブレイディのサインが書かれた『ブレイディ・バンチ』(『ゆかいなブレディー家』)のコミックの上に、『ディープ・スロート』(70年代前半に制作されたポルノ・ヴィデオ)に出演していたリンダ・ラブレスのサインを重ね合わせてみたんだが、二人の筆跡は同一と言ってもいいくらいに似ている。マーシャ・ブレディがフェラしている姿を想像せずにはいられない。他に何を連想するだろう?

サインを見ている、その感覚が好きなんだ。サインを見ていると、これを書いた歴史上の人物がすぐそばにいるような時間を得られる。チャールズ・マンソンとアネット・フニセロ、アンディ・ウォーホルとムーアズ殺人事件のイアン・ブレイディのサインなど、多くのサインをコラージュした。彼らはみな同じことを言っているんだ。ウォーホルのサインには「メリークリスマス、アンディ・ウォーホル」、イアン・ブレイディが送ってくれたクリスマスカードには「ハッピーホリデー、イアン・ブレイディ」。かたや世界で最も有名な殺人犯、かたや世界で最も有名なアーティストが同じ場所にいるんだよ。

-実にシュルレアリスティックだ。あなたの音楽はイタリアの未来派的音楽実験にも通じるものがある。あなたの表現は前衛か、それとも大衆に向けているのか。

両方だ。ほとんどの人は私のやっていることが理解できないだろう。しかし、珍しいものを見に画廊を訪れる人たちより、何も知らない人たちを満足させる方が私は好きだね。いわゆる普通の人がロックンロールのクラブに来て、そこで大音量のノイズを浴びせられると何とコメントしていいかわからなくなる。でも、ほとんどの場合、それは満足しているということだよ。とても直感的で理屈抜きの感情なんだ。観客として座っているのとは違うことを経験しているのだから。

-あなたを称するのに「世界で最も危険なアーティスト」か「世界で最もユニークなイタズラ好き」、どちらがふさわしいと思いますか。

うーん、アートがそんなに危険なものなのか疑問があるな。アートの世界の住人の多くは、それが危険で、世界に変革さえもたらすものだと思っている。私はそれに懐疑的だし、アートが危険なものとも思わない。私は10代のころからイタズラをしてきた。それは心理戦の一つだった。人の心の中に入り込み、どれだけ変えられるか。人々は信じ込まされたものに基づいて行動する。
何故そんなことをしていたかというと、私は子供のころから大人になったら犯罪者になると思っていたからだ。普通の仕事に就く大人になんてなりたくなかった。プライマリスクール3年生の時、毎朝同じ時間にシャツを着て、髪を整えて、サンドイッチを食べては車に乗って働きに行く男を窓越しに見ていた。「大人になったらあんな風になるのか、毎日好きなことができるわけではないのか」と思ったよ。だからその場で決心した。あんな生活をしないためなら何でもする、もっと面白い人生を過ごすためなら銀行強盗だってする、とね。犯罪者になる覚悟はしていたが、そうはならなかった。

-かつて「アートは文脈についてのものだ」と話していましたが、あなたはナチスのシンボルを引用したり、リベラルのそれを意図的に排除したことで批判を受けたことがありますね。近年では「Victimhood is Powerful」というシャツもありました。これらのシンボルにはどんな文脈が?

私が実際にナチのスワスティカを使ったことはない。ナチが使用したルーンのシンボルなら使ったがね。君の質問からは私の文脈が排除されているように思うな。私がそうコメントした時、それは世界と芸術についてのものだったと思う。ギャラリーの中の出来事という文脈があると、それは現実ではなく何かの象徴的なものとなってしまう。

マサチューセッツ工科大学のレクチャーで講義したことがあるんだが、他の登壇者たちは哲学や美術史などの教授ばかりだった。私たちは大学を出て、ホテルに向かって歩いていたのだが、その間彼らは芸術の偉大な可能性について話していた。私はアートの世界の文脈はすべてを知的かつ無力なものにしてしまうと話したんだよ。
70年代のカリフォルニアで有名な男がいた。その男は大学の教室内でパンツを脱ぎ、自分の身体に汚物を塗りたくった。そして勃起したペニスにホイップクリームを添えて、バービー人形を尻に突っ込んだ。その間、彼は醜い老人の顔のマスクをつけていた。その時の写真は本当に信じられないくらい醜く、狂っているものだった。この男のことを教えたら、抗議を聞いていた学生たちは黙って座っていただけだった。もし、信号待ちをしている間に見かけた浮浪者がそんなことをしていたら一生忘れられない瞬間になるだろう。しかし、大学の生徒はそれをアートの世界の文脈を介して見る。それは本質的に対象を無意味なものにしてしまう。

-私が尋ねたのはそういうことだと思います。80年代はナチズムに限らず、全体主義的なシンボルが再利用されがちだった。ドイチュ=アメリカニシェ・フロイントシャフトのある曲では「ヒトラー、ムッソリーニ、スターリンと踊ろう」と呼びかけていました。全体主義の象徴に触れることなく何かを指摘することについてはどうお思いですか。

なんともいえないな。私と他人がやってきたことを混同してはいないか。TGが全体主義のイメージを使い始めたら、後からみんなが一斉に真似し始めたんだよ。 テープのアートワークにはアウシュヴィッツやヒトラー、ホロコースト、死体の山の写真が使われるようになった。ジェネシスが非常に思慮深くやっていたものを、それを模倣した連中は非常に軽率に扱っていたというわけだ。「これはショッキングだし使ってやろう」とかそんな感じだよ。スターリン、エヴァ・ペロン、ムッソリーニ、なんであれ全体主義的なものは人間性に秘められた何かに訴えかけてくる。組織化された宗教にはショービジネスの要素がある。ソ連やナチスでは実際に儀式化されたセレモニーがあり、そこではリチュアルな音楽やお香の類が使われていたんだ。
それは多くの人を惹きつけるテーマだが、使用している者のほとんどは考えなしに手を出しているのが現実だ。ライバッハは自分たちが何をしているかちゃんと理解しているがね。こんなことわざがある。「最初に成し遂げたものが天才で、二番目は愚者である」。

-自分のことをノンポリだと思いますか?

ノンポリというのは正しいね。自分は常にそうだと思っている。理由は先ほど話したことと繋がる。政府が私の人生を変えるために何かをしてくれるなんて期待していない。望むならば、自分自身でそれを実現しなければならない。政治のシステムは世界中どこの国でも、どれだけ異なっているように見えても、基本的には同じものだよ。サルバドール・ダリはフランコの、エズラ・パウンドはムッソリーニの時代に生きていた。米国でだれが政権をとろうが私は生きていく。どんなに最悪の時代でも常に素晴らしい人生を送ってきたと思っているよ。70年代、景気が最悪だった時代は人々がガソリンを買うために行列をなしていた。その時でも私は生きてきたんだ。

-「Victimhood is Powerful」の話に戻ります。あなたが先ほど言っていたことと、バロウズの「言語はウィルス」という自説と繋がりはありますか。

ない。あのロゴとTシャツは#MeToo運動に触発されたものだよ。誰もが「私だって」と被害者になりたがる。被害者になることが究極のヒロイズムだと思っている人も多いようだが、私は理解できない。英雄になること、勇気をもって何かを成すことがどれだけ大変か。しかし「私の人生は悲惨だけど、それは自分のせいじゃない」と言うのは簡単だ。「私はあのグループ、あの男性の被害者だ」と言うのもね。昔の女性解放運動のスローガン「Sisterhood」を参考にして、今は「被害者愛は力なり」と思ったわけだ。ネット上で「レイプされた」と書けば、誰もが「かわいそうに」と返してくれる。

-過去のインタビュー中で「サンフランシスコで過ごしていた若き頃、ガールフレンドがいれば同性愛嫌悪者、レーガンを支持していればファシストだった」と回想していますね。私は当時生まれていなかったのですが、なんだか身近なことに感じるのです。レーガン時代とトランプ時代の違いは何だと思いますか。

レーガン時代でいう「狂気」とは、狂人の周縁(フリンジ)からやってくるものだった。年を食ったヒッピーやパンクスは「レーガンはナチだ」というし、友人のジェロ・ビアフラも同じことをいつも口にしていた。しかし、今日レーガンはナチとは呼ばれてないね。バカげた話だ。その一方で、今日トランプをナチスと呼んでいる人たちは米国のの人口の半分にのぼる。狂信的なフリンジ、その狂気が大衆の思想や世論を構成しているということだ。

-世界的なパンデミック下で生きていて、これを録音している6月現在、米国の各地で暴動が起こっています。何か一言いただけませんか。

ずっと言っていることだが、60年代を生きていない人にはケント州立大学で起きたデモ行進を見逃してしまったという感覚があると思うんだ。10代の若者たちが世界を変えたという考え方の人は多いが、ただ外に出て、そこらに火をつけたい人が多いだけだ。

警官の友人がいて、彼も抗議や暴動が起きた時に出動した。多くの抗議者は平和的だが、同時に州外からの抗議者を乗せたバスが列をなしてやってくる。実際にトラブルを起こしているのはそんな連中なんだよ。集団が窓を叩き割るところを見たら、今まで割ったことがない人だって、そういうことをする気になる。窓をたたき割った店から商品を持ち出すところを見ると、同じことをしようという気持ちが湧いてくるものなんだ。秩序としての警察がいなければ、それは続けられるだろう。ドイツにターゲット(米国のディスカウント・チェーン)の店舗があるかは知らないが、前の晩には店を荒らしている人たちを見たよ。平凡な店だが、とにかくそれらの店から略奪していた人々がいた。ミッドタウンに向かったと聞いたな。ロレックスの店の窓を壊した人もいたし、その前にはナイキの靴を盗んだ連中もいた。靴って一度に何足持ち歩けるんだろう?それよりも25000ドルのロレックスを枕カバーの中にいっぱいになるまで入れた方が効率がいいな。ロレックスの店を襲うからには、より高い目標を設定しないとね。

(了)


2018年の展覧会キャンセル騒ぎのせいで再びメディアに追い回されるようになってしまった感のあるボイドだが、今回の「Victimhood」のように挑発的な言動を発するのは珍しい。個人的にはネット上の運動に対してノーリアクションであった氏の孤高な佇まいが、SNS登場以降の窮屈な世界に対抗しているようで好ましかったのだが。とにかく60年代のアナーキズムとカウンターカルチャーの凋落を目撃しているせいか、徹頭徹尾、旧来のニヒリストでありアーティストであることが強調されたインタビューであった。重要なのは賛同だけがそれを認めることに非ず、ということである。彼を尊敬することと、全肯定して追従することは違う。彼も引用しているように「二番目は愚者」の法則がそこにはある。



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