The WIRE 2006年1月号 Invisible Jukebox Steven Stapleton

英国発音楽雑誌『WIRE』の定番企画にInvisible Jukeboxというものがある。レコードの名前を伏せて音楽を流してはアーティストたちにそれが何かを問いかけ、ついでにその音楽や作者、そして自分について喋ってもらうといった調子だ。
日本でも『めかくしプレイ』としてミュージック・マガジンから企画され、国内の作家へのインタビューを集めた連載と単行本があった。本家は『めかくしジュークボックス―32人の音楽家たちへのリスニング・テスト』として邦訳されている。

アーティストの博識ぶりを求めるわけではなく、音楽やインタビュアーの質問から作家の見解、パーソナリティ、哲学を引き出すのが企画の核心である。ネットにもチラホラ上がっているのだが、どうも日本語化されているものが少ない。専門用語も多いため訳すのが中々難しいのだろう。今回は自分の翻訳の練習も兼ねて、Nurse with WoundことSteven Stapleton(スティーヴン・ステイプルトン)の回を訳してみた。
拙い部分・意味が通っているのか怪しい部分もあり、気付き次第すぐに逐一修正していくが大筋は合っていると思う。もし原文を間違いに気づいたら、SNSにシェアする前に一声かけていただけると嬉しい。
2006年の取材ということもあり、出てくる単語に時代を感じるかもしれない。一人称や語尾は『銀星倶楽部 ノイズ特集号』のインタビューに準じた。


#1. Guru Guru / Stone In (アルバム『UFO』から)

わかった!グルグルだ。『UFO』、僕が知る中でも究極にストナーなアルバムだよ。当時聴いた音楽の中では最もヘヴィなものだった。このトラックは「ストーン・イン」かな。このバンドの興味深いところは、メンバーの数人がフリージャズ出身であること。ウリ・トレプテとマニ・ノイメイヤーはドイツのジャズ・シーンから、ギタリストのアックス・ゲンリッヒはアジテーション・フリーというバンドからやってきた。驚くことにバンドを組む以前の彼らはサックスをリード楽器にしていて、どのようにギターを音楽に取り入れるか考えていたんだ。素晴らしいバンドだよ。光栄なことに僕は70年代の初期に彼らと会うことが出来た。『カンガルー』は僕にとってオールタイムでベストのアルバムかもしれない。バンドがコニー・プランクと残した作品は不思議で素晴らしいものだ。シビレさせてくれるレコードだよ。

-レコードの制作現場を見たのですか。

僕はコニー・プランクと一緒に住んでいて、その時に彼が話してくれた。そのすぐ後にウリとも住んだよ。

-当時何歳でしたか。

15歳。僕はクラウトロックのグルーピーだった。

-当時、このタイプの音楽にハマっている友人はいましたか。

10年後にNurse with Woundを一緒に始める男一人だけだった。ヒーマン・パサックというインド人だ。僕らはドイツ周辺を旅していて、その間は当時誰も知らなかったバンドたちとずっと一緒だった。コレクティヴ、クリエイティヴ・ロック、バース・コントロール、クラーン、他にもたくさん。僕らはヨーロッパ一帯を周った。最初に着いた土地はパリで、見たバンドはジルバート・アルマン&ラード・フリーだったと記憶している。僕たちはドイツ周辺のツアー中で、小型のバンの中から三人ともラード・フリーにくぎ付けだった。僕はクラスターの『ゾヴィゾーゾー』のカバーもデザインしたこともあったけど、結局それは使われなかった。

-グル・グルのレコードはユナイテッド・デアリーズからも出ていましたよね?

うん、『Live in 72』だ。片面は彼らの2枚目のアルバム『ヒンテン』から「ボ・ディドリー」一曲だけ。24分間に拡大した演奏だった。もう片面はウリ・トレプテがコニー・プランクとサースティー・ムーン、こちらも素晴らしいバンドのメンバーが参加したもので、世に出ていなかった音源だ。(注・実際はウリ、プランク、サースティー・ムーンに加えてエンブリオとフランピーのメンバーが参加している。原文に従って訳したが、エンブリオからはメンバーが2人参加しているのでそちらの印象の方が強い)


#2. Luc Ferrari / UNHEIMLICH SCHOEN (アルバム『UNHEIMLICH SCHOEN』から)

(タイトル曲、女性の息のリピート)ブリジット・フォンテーヌ?

-違います。

これはわからないな。

-後期のリュック・フェラーリです。これはロバート・アシュレイの「シー・ワズ・ア・ヴィジター」のオマージュだと私は思います。

フェラーリは大好きだよ。とても独創的だった。彼のハープシコードによる作品のいくつかは素晴らしい。80年代初期にレーベルを運営していた頃、僕は一度だけ彼に共同で何か出来ないか尋ねてみたことがある。彼の友達であるアン・ダルム・ミュジカル・アンスタンテニがいるパリに滞在していた時、一枚のコンセプト・レコード、『イン・フラクチュアド・サイレンス』というコンピレーション・アルバムを一緒に作っていた。「貝の割れ目は壊れた沈黙の中で鳴り響く」、コンセプトは確かこんな一節だったと思う。僕らは参加者にもこれを教えていた。フェラーリに電話したら、その一節を言うまではとても機嫌が良かったんだが、それを聞いた途端に彼は激昂して、「君はとんでもないファシストだ!どうしてそんなことを言えるのか、私に従う余地はない。君のプロジェクトには参加しない!」と言われた。尊敬していただけにとても残念だ。面白い見解だったけどね。

-これはメタムキンから3"CDでリリースされています。

ああ、間抜けだったな。当てるべきだった。CDが家にあるからね、再生したことはないんだけど。良い作品だし、僕がちょうど完成させた『エコー・ポエム・シークエンス』に少し似てるね。

-『エコー・ポエム』や『ア・ミッシング・センス』はどのような背景から作られたのですか。

昔も言ったように、『ミッシング』は僕自身が楽しめるように作った。リリースするつもりもなかったんだ。他人も好きになるとは思っていたけど、あれはほぼロバート・アシュレイのコピーで、素晴らしいアルバム『オートマティック・ライティング』をカバーしているだけだよ。でも、『エコー・ポエム』は『去年マリエンバードで』(アラン・レネ監督)にインスパイアされた作品なんだ。自分が今まで見た中で最も奇妙奇天烈な映画だと思う。まるで夢を見ているようで、僕はその映画をテーマに何かしてみたいと思ったんだ。映画のボリュームを下げて『エコー・ポエム』を再生してみることをお勧めするよ。僕もやってみたけど、とても美しく作用した。

-『ミッシング』は元々あなたのLSD体験から考案されたプライベートなテープでした。他の作品のレコーディングでも(LSDを)使用していましたか?

当時はね。70年代から80年代だ。僕は大量のアシッドや麻、カナビスを使っていた。2000年にはすっぱりやめたけどね。今ではストレートだ。でも、当時作ったものを振り返っても今と大した違いはないね。それはちょっとした幻覚を呼ぶもので、その寄せ集めが僕を助けていた。一度だけ、アルバムを作るためにCOILのジョン・バランスと一週間一緒だったことを覚えている。僕たちはヨークシャーにあるコリン・ポッターのスタジオでハードな作業をしていて、ジョンは当時たくさんのドラッグを使用していた。彼と一緒に作業するのは難しかったな。激しい作業の5日後、僕たちは互いに見つめ合いながら「これはクソだな、このテープをぶち壊そう」となって全部破棄したのだけど、今では後悔している。
『サンダー・パーフェクト・マインド』の録音時、僕がアルバムのパーツをミックスしようとした時にバランスが錠剤を持ってきて、「ミックスする時はこいつを使うべきだよ!」と言ってきた。それが何なのか尋ねても「教えない、やってみなよ」と返されるんだ、おかしいだろう。で、それを飲んでみたら5分間頭が真っ白になってしまった。それは奇妙な設計がされたドラッグだった。僕の体からアルコールやカナビスは払拭され、ミキシングなんて出来なくなった。常軌を逸していたよ。何も感じなくなったんだ。

-『サンダー・パーフェクト・マインド』のセッションはどのように行なわれたのですか。

僕は(他人が作った)インダストリアルというラベルを貼られることにウンザリしていた。僕は自分にとって究極のインダストリアルな音楽を作りたかったんだ。「コールド」でそれが出来たと思う。ヘヴィーで、ドリルのようでメタリック、工場のノイズだ。ジェネシス・P・オリッジのアイデアとは対称的な、本当のインダストリアル・ミュージックだよ。ルッソロのインダストリアル、未来派に匹敵するようなね。自分の方法でそれを手に入れてみたかったんだ。

-このアイデアとタイトルはどんな関連があるのでしょうか。グノーシス派のテキストから引用したのですか。

関係はない。チベット(デヴィット・チベット)と僕はカレント93の『サンダー・パーフェクト・マインド』(注・NWWとカレントは同時期に同名のアルバムを出している)のために数カ月作業していた。その間、僕は同じ名を持ったアルバムを完成させる夢を見たので、互いに姉妹作として発表することにしたんだ。お互いに録音し、素材を交換し合った。カレントのアルバムの二分間がそのままNWWの方にも入ってるし、逆も然りだ。多くの人々がそれに気付いていないのは面白い話だね。

-あなたはグノーシズムへの関心をチベットと共有していますか。

いいや、何事でも僕たちが一致することはないよ。ほぼ全てにおいて対照的な特徴だからね。何故気が合うのか、自分でも不思議なんだ。


#3. Metgumbnerbone / Untitled (アルバム『Ligeliahorn 』から)

これ知ってるよ。とても変なサウンドだ。でも、これ僕のじゃないか?

-違います。

『ホモトピー・トゥ・マリー』(注・82年に出たNWWのアルバム)にそっくりだ。

-これはあるグループのサイド・プロジェクトで、あなたもユナイテッド・デアリーズからリリースしました。

オルガヌム?

-いいえ。メンバーの一人はオルガヌムにも参加していましたが。

とても良いね。なんてこった!『ホモトピー』にそっくりじゃないか?

-これはMetgumbnerbone(注・読み方不明)です。ニューカッスル発の不可思議なサウンドですね。

そうか、ルペナスだ(笑)。彼は面白くて変わった男だよ。彼の初期のプロジェクトは大好きさ。ザ・フューネラル・ダンス・パーティーにブラッダー・フラスクの『One Day I Was So Sad That The Corners Of My Mouth Met & Everybody Thought I Was Whistling』。後者は素晴らしいタイトルだ。クラシックだね。これの録音には僕が持ってた椅子が使われているに違いない。

-あなたがユナイテッド・デアリーズを稼働させていた時、レーベルはどのように機能していましたか。

たいして機能してなかったよ。満足に進まなかった。僕はレコード・レーベルを持つことにロマンチックなヴィジョンを持っていたけど、結果は酷いものだった。レーベル運営なんて大嫌いだね。10年間やったんだ。現実は、素晴らしいけれど誰も興味がないものをリリースするということだった。まだアヴャンギャルドやコンテンポラリー系のレーベルが少ない時期だったから、僕たちはリリースする対象の範囲を拡げたりもしなかった。音楽を集めたり人々に会うことは楽しかったよ。でも、ビジネス面は最悪だった。
10代のころ、ドイツのオーア(Ohr)というレーベルに刺激された。僕はそこのリリースを全て持っていて、ある日思ったんだ。あそこのように魅力的なレコード・レーベルを作りたいとね。

-あなたは実現できたと思います。

頑張って取り組んでみたけど、成功したとは思えないな。たくさんの作品にインスパイアはされたが。オーアを運営していたロルフ・ウルリッヒ・カイザーはバカの極みでオーア・コズミック・レーベルを立ち上げた。”コズミック”とか"ティモシー・リアリーにインスパイアされた"とかで、マーケティングを始めたんだ。お金のことだけを考えていたんだと思う。でも、オーアの最初の5年間は素晴らしかったんだよ。出たアルバムのすべてが今では伝説級のクラシックだ。リンバスの『4』、グル・グルの最初の2枚のアルバム、アニマの1st、タンジェリン・ドリームの『エレクトリック・メディテーション』、クラウス・シュルツェの『イルリヒト』、アシュ・ラ・テンペルの2ndなんかは僕が聴いてきた中で最もダークな作品の一つだ。


#4. INTERNATIONAL HARVESTER / I MOURN YOU (アルバム『Sov Gott Rose-Marie 』から)

いつ簡単なやつをかけてくれるのかな!

-これはスウェーデンのものです。

ああ、わかった。インターナショナル・ハーヴェスターだ。彼らはとても良いバンドだよ。『Sov Got...』はマスターピース、美しいレコードだ。数年前、僕は全ての音楽に飽きてしまった。90年代には飽和状態に達していたからね。音楽そのものにうんざりしていた。その間聴いていたのは最初期のアモン・デュールとハーヴェスターだけだった。このアルバムは延々と流していたよ。残念ながら晩年の彼らは安易なカバー・バージョンばかり出していた。でも、その中にはのろのろしたジャムや、20分間の単調なバージョンになった「オール・アロング・ザ・ウォッチオーヴァー」があった。レパートリーは色々あったけど、ホークウィンドのカバーもあったかな。彼らは究極のフェスティバル・バンドになるべきなんだよ。演奏を見たことはないけど、これは初期のアモン・デュールのレコードに匹敵するね。この(今聴いている)部分なんてまるで『サイケデリック・アンダーグラウンド』だ。僕はジャムの即興的な部分が好きで、当時のスカンジナビアにはフレスケット・ブリナーのようなバンドが沢山いた。

-最近のフィンランドのシーンはフォローしていますか?今日、多くのフィランドのバンドとアモン・デュールがやっていたことは同じように見えます。

コリン・ポッターはこの手の音楽に心酔していて、時々僕にも送ってくれる。でも、多くは知らないな。ハプシャシュ・アンド・ザ・カラード・コートを聴いたことは?

-ないです。

アモン・デュールのようなとてもユニークなジャム・バンドといえば、彼らが真っ先に思い浮かぶ。初めて『サイケデリック・アンダーグラウンド』を聴いた時は動けなくなってしまったほどで、それ以前はそんな音楽はなかったんだ。本当にそれだけだった。レコードにはヒッピーたちのジャムが詰め込まれていて、アルバムを出すと同時に、彼らは音楽的とは全く言えないフリーフォームなジャムへと変わっていった。素晴らしいと思ったよ。最高のアウトサイダー・ミュージックだった!
当時、バンド内の何人かの男と話して、彼らが他のバンドのコピーをしていることを知った。それが66年か67年にロンドンでハプシャシュ・アンド・ザ・カラード・コートと呼ばれていたバンドだ。彼らは『インターナショナル・タイムス』のようなヒッピー出版に関わっていたと思う。膨大なセッションの録音を保持していて、そこから1時間かそれ以上に渡ってフリークアウトしたものを選んでは分割し、アルバムにしていたんだ。アモン・デュールそのものだったね。当時のデュールは政治的コミューンで、大量の機材を得てからはハプシャシュのコピーを始めていた。これが『サイケデリック・アンダーグラウンド』の成り立ちさ。

-かつてこのような長尺のドローン的なロックのレコードを作ろうとしたことはありますか。

ない。僕は未だに楽器の演奏が出来ないんだ。演奏を始めちゃったら、(キリのいいところで)終わらせられないだろうね。それに今や多くの人がやっていることだ。


#5. HERMANN NITSCH / Part.1 (アルバム『Musik Der 66. Aktion』から)

これは知ってるんだけど...

-血液(の音)だと思います。

これはウィーンのアクショニストの誰かだね。ヘルマン・ニッチュだ。これは何?ザ・リチュアルの一つ?

-これは『ミュージック・デア・66・アクション』です。オルガン、シンセサイザー、オーケストラ、そしてパンクのグループを招いて作られました。

これは初めて知ったな。

-ニッチュのパフォーマンスを見たことはありますか?

ない。僕自身は特に興味なかったけど、アルガ・マルゲンはいくつもの良い作品をリリースしている素晴らしいレーベルだね。最近ウィーンのアクショニスト・ミュージアムにも行ったよ。驚いたのは、20年前に彼らは自身らのパフォーマンスのせいで送還・投獄されていたのに、それが今では文化的遺産になっていることだ。あの大きなミュージアムは彼ら自身に捧げられている。ちょっと不思議に思ったのは、70年代頭に僕は彼らと似たようなことをやっていた英国のパフォーマンス・アーティスト、スチュアート・ブリスリーなんかに夢中だった。しかし、改めてアクショニスト・ミュージアムに行ったとき、「なんて馬鹿げた集まりなんだ」と思った。何も感動しなかったんだ。パフォーマンスのフィルムはかつて僕が感じていたロマンスを失っていた。個人のパフォーマンスのスチルはとても魅力的で、ルドルフ・シュワルツコグラーの「婚礼」のいくつかはとても美しかったが。ディーター・ロスによる「ベルリナー・ディッター・ワークショップ」は僕が最も気に入っているものの一つだ。3人の酔っ払ったアクショニストとルボックスの機材からなるアルバムで、彼らは同じ青空について歌った曲を繰り返し歌う。歌う度に繰り返し酒を飲む。少しギルバート・アンド・ジョージっぽいかな。テープ・マシーンを操作する男は酔っ払い過ぎてて動かせない。前方から後方へフラフラしながら、彼らのリバーヴやエコーといった指示を受けるんだ。今やるようなことではないけれど、このアルバムは本当に素晴らしい。


#6. KURT SCHWITTERS / SIMULTANGEDICHT KAA GEE DEE (アルバム『FUTURA POESIA SOWORA 』から)

フーゴー・バルかクルト・シュヴィッターズかな?

-シュヴィッターズです。シュールレアリストたちは今でもあなたを魅了しますか?

しているね。うん、これは好きだな。マット・ウォルドン(irr.app.(ext))はサウンド・ポエトリーが大好きで、彼とやる時は凄いんだ。セット内に10分間のセクションを設けて、そこでサウンド・ポエトリーの一つとして叫ぶんだよ。一緒にやっててとても楽しい。

-彼は鳥の鳴き声を翻訳したというものを使っていると聞きました。

ああ、それも聞いたよ。僕はまだダダの哲学を崇拝している。コラージュ、特に初期のものは素晴らしく、古びることはない。僕の芸術のインスピレーション元であることは間違いないだろう。ラウル・ハウスマンは最高の芸術家だ。彼の作品は僕を焚き付けてくれる。

-アイルランドのあなたの家はシュヴィッターズのメルツバウ(シュヴィッターズの自宅にしてダダの代表的な一例)に並ぶと思いますか。

まだその境地には達していないかな。でも、そうなっていくと思う。残念なのは彼の家(ノルウェー)が火事や戦争で焼け落ちてしまったことだ。残ったいくつかの写真はとても良かったよ。


#7. EMILE FORD & THE CHECKMATES / What do you want to make those eyes at me for (アルバム『JOE MEEK PORTRAIT OF GEINUS 』から)

(歌い出す)これらの奇妙なレコードは大好きだ。彼らの音は美しい。

-これはジョー・ミークのアンソロジーにコンパイルされています。彼はこの曲ではエンジニアですね。

魅力的な男だ。北ロンドンの人間で、僕もそうなんだよ。80年代に彼のスタジオやアーチウェイ・ロードのお店を眺めにいったこともある。ブルー・メンの『アイ・ヒアー・ア・ニュー・ワールド』は不思議なレコードだね。(注・内容には差し支えないが、一節だけ前後の意味が繋がらない部分があり省略している。ご了承を)

-もし私が間違っていなければ、誰かが『シルヴィ・アンド・バブス』の中でこれを歌っています。

その通り。ピーター・マッギーだ。僕が使っていた、IPSと呼ばれていたスタジオのエンジニアだよ。今では伝説だが、実際は穴だらけで下水が漏れていたし、排水管からも水が溢れていた。マッギーはエンジニアになる前はキャバレーのシンガーだったんだ。"What~"はお気に入りの曲の一つだよ。ある日彼がこの曲をハミングしていたから、僕は「ストップ!スタジオに入って、それを歌って!」と頼んだ。彼は歌い、僕は最初の数小節を演奏した。マイクに向かってめちゃくちゃに歌っては「それいただき!」を繰り返し、最終的に囁くような彼のボーカルをレコードに入れた。

-『シルヴィ・アンド・バブス』はメールアート・プロジェクトですか。

違う。僕は1年半にわたって、毎週金曜の夜にスタジオをブッキングしていた。だから、金曜日はグラフィック・デザインの仕事が終わったらスタジオにまっすぐ向かっていた。毎週異なる人を誘って、時々1時間くらい話をして、ちょっとだけ音楽を作ったり、ハッパを吸ったり、音楽を聴いたり。1年半が過ぎてみると、それぞれ異なるピースが出来上がっていた。スタジオで演奏されたものもあるけど、大半は他のレコードから持ってきたものだったね。実際に演奏しないでレコードを作りたいというアイデアだったから。指揮者のように、他のレコードや他人から提供された録音を一緒にしたんだ。結果的には個々のピースを繋げるために演奏しなければならなかったけどね。作ったものは長くなりすぎてしまった。成功したレコードとは言い難かったけど、多くの人々に好かれているね。

とても嬉しかったのはメルツバウのインタビューを読んだとき、「ミュージック・コンクレートはピエール・シェフィールやリュック・フェラーリのレコードから学んだのですか」という問いがあって、彼が『シルヴィ・アンド・バブス』から学んだと答えていたことだ。驚いたよ。ありがたいことだ。でも、(『シルヴィ・アンド・バブス』は)学習のプロセスだったんだ。スタジオの使い方や録音したものの並べ方、そして「やるべきでないことを如何にして知るのか」、というね。四角い釘を丸い穴にハンマーで打ち付けるように、どうにかして作業したんだ。アルバムを作るのは楽しかったよ。
シアトルに行った時、スメグマと彼らの素晴らしいアルバムに出会った。彼ら自身もそれがお気に入りで、僕が「Dueling Banjos」で使っていたようなカットアップといった面白い要素は、実際スメグマにインスパイアされたものだった。彼らが79年に出したシングルはサンプリングをループさせたものだった。誰かが「What real difference does that make?」と言って、それが延々と繰り替えされている。僕はそれが大好きだった(注・Muteから出たノンとのスプリット収録の「Can't Look Straight」)。これがスメグマを通して僕がカットアップへ手を出していった経緯さ。そして次にスメグマが僕の作品を聴いた。それは互いにとって奇妙な変化の始まりだった。


#8. Perez Prado & His Orchestra / CEREZO ROSA (アルバム『GO GO MAMBO』から)

プラードだ。うん、彼はワンダフルな男だ。この曲は変なバージョンだね。彼の作品は今でも敬愛している。ビーフハートを除けば、僕が全ての作品を集めている唯一のアーティストだ。彼のグレイテスト・ヒッツ・アルバムを見かけた時には毎回買っているけど、いつも違う録音なんだ。当時、彼らは(曲の)マスターテープを送らなかった。彼らは(曲そのものではなく演奏する)バンドを世に出していて、プラードはどんなバンドとでも録音したんだ。それはコンスタントに変化しているから、君がプラードのアルバムを買う時はグレイテスト・ヒッツ・アルバムだろうとカバー・バージョンだろうと全て異なる内容なんだよ。その曲を知っているんだけど、聴いたことがないんだ。90のプラードのCDは殆ど内容がダブらない。彼は多作だからね。クリストフ・ヒーマンだったと思うけど、ネット上のどこかで彼の数百のディスコグラフィーがあると教えてくれた。彼の音楽は僕を刺激するね。よく構築されている手法だ。彼は基盤となるリズムから作品を築いていく、建築のような作り方だね。

-いつプラードを知ったのですか。

アイルランドのテレビで流れていたギネスのCMから。ギネスを1パイント注文した時、コップに注がれて手元に来るまでの間にバーのテレビでCMが流れる。それを見ている間に「ギネスを待っている時、自分は何をしているんだろう?」と考えるわけだ。CMではギネスが注がれる間に男が飛び跳ねたり、変なアクロバットを見せるんだけど、僕は「この音楽は何だろう。とても良い、これが何なのか知るべきだ」と思った。それを録音するために、何日もCMが流れるのをカセット・プレイヤーに指をかけながら待ったよ。それはギネスのCMでも最も有名なもので、実際にシングルも出ていた。そしてグレイテスト・ヒッツ・アルバムを買ってプラードにハマってしまった。3年か4年はずっとプラードを聴いていたな。
そのシングルの名前は「ガリオーネ」だった。「マンボNo.5」を除いて、彼の作品でも最も知られたものだ。マンボの人気が失われた後、彼は他のダンス・ミュージックを発明しようとしたけど、流行らなかったのでメキシコに帰った。
プラードの息子は自分のバンドによるマンボの演奏でアメリカをツアーしていたんだが、彼らは北アメリカをペレス・プラード楽団の名前で周っていたところを父親に見つかって止められた上、名前の権利を巡って訴えられてしまったんだ。凄い話だよ。
マンボはそのポピュラリティーを失った。RCAはプラードを捨てたし、彼も異なるキャラクターで、かすかにマンボが下敷きになっている変わった音楽の実験を始めた。それはハープシコードや歪められたギターとマンボの組み合わせで、いくつかはかなり奇妙だった。クリストフ・ヒーマンと僕はこれらメキシコでの録音に夢中だったね。どれも本当におかしかった。


#9. LADY SOVEREIGN / CHA-CHING (コンピレーション・アルバム『Run The Road』から)

僕にとっては新しい音楽だ。聴いたことがないな。白人のヒップホップかな?

-彼女はロンドン出身です。

わかった。MIAかな?それともレディ・サヴリン?そろそろ歌が始まる頃だ。これはシングルかな。とても面白い。彼女の曲は好きだよ。ダーティーなグライムの要素があるのが良いんだ。

-グライムはお好きですか。

あまり詳しくないんだ。僕の子供はディジー・ラスカルを聴いていて、僕自身もグライムのコンピレーションをいくつか持ってる。でも、そんなに興味をそそられないかな。僕はMIAよりレディ・サヴリンの方が好きだ。MIAはポップな要素が潜んでいて、ほぼバブルガム、落ち着かない。でも、僕の好みはアフリカン・アメリカンのヒップホップで、ミッシー・エリオットが大好きだ。ここ数年の彼女の仕事はあまり好きじゃないけどね。感傷的なR&Bは面白くないし、オーバー・プロデュースだよ。実際、彼女はティンバランドから離れてしまって、それは良くなかった。ネプチューンズとの仕事は良い出来とは言えないね。彼らの仕事で良かったのはスヌープ・ドッグの「Drop It Like It's Hot」だ。カッ、カッというボーカル(注・動画参照)が好きだけど、彼らはオーバー・プロデュースする傾向にある。リュダクリスのいくつかは我慢できるけど、メール・ヒップホップは殆ど好きじゃないんだ。フィメール・ヒップホップは軒並み大好きで、ギャングスタ・ラップは特にね。T-Love、バハマディア、ジーン・グレイのように洗練されたものがお気に入りだ。いくらでも聴けるね。

-NWWによるフィメール・ヒップホップのレコードのうわさがありますが・・・

本当だよ!半分くらい出来てる。アルバムには何人かのラッパーが参加してて、自身の作品で使うトラックをこちらが提供するという条件で同意してもらった。とてもいいトレードだ。
僕は家を建てている最中で、このプロジェクトも保留にしているんだ。まずはそれを終わらせなければならない。家を建てるのに時間をほとんど使っているんだよ。それが終わったら音楽に戻るつもりだ。


聴かされたレコード以外の曲の話をするのは何もStevenに限らず、この企画の参加者は大抵そうである。編集する側も大変な作業だろう。何点か注釈を入れておくと、『シルヴィ・アンド・バブス』は85年、メルツバウのディスコグラフィーでも異色のミュージック・コンクレート大作『抜刀隊』は86年発表である。最後に述べているラッパー(恐らく女性)を招いたヒップホップ・アルバムについては頓挫してしまったようだ。私はてっきり08年の『ハフィン・ラグ・ブルース』が彼なりのフィメール・ヒップホップ・アルバムなのかと思っていたのだが、どうやら本気でトラックを作っていたらしい。『シップレック・レディオ』Vol.1の1曲目ではバハマディアの「spontaneity」をそのままネタにしており、結果的に唯一の痕跡となってしまった。
コニー・プランクと一緒に住んでいたというのはかなり夢のある話だが、この時の彼はまだ音楽に手を出そうと考えもしなかった頃。グル・グルやクラーンのローディーとしてキャンプ生活をしていたこともあまり話さない。単に尋ねられる機会に恵まれていないだけかもしれないが。ちなみにローディー時代でもStevenはグラフィック周りの仕事をするほか、ロンドンに帰った彼の名前が最初に出た仕事はロッ ク・イン・オポジッション第1回のフライヤーである(左手の部分にサインが添えてある)。これも良い話なのだが、言及されることは少ない。

最後に「家を建てている」という発言だが、これはそのままの意味で本当に彼は家を建てている。96年頃の『クイック・ジャパン』でステレオラブのティム・ゲインは「嵐で家が倒れかかってるからと言われてアルバムのプロデュースを断られた」とこぼしていた。Stevenの土地、Cooloortaは彼が設計した小屋が無数に立っており、巨大な牧場もある。義理の息子でありアースモンキーとして知られるピート・ボッグは「世界の美しさの一部を担っている」と教えてくれた。

改めて見直して、訂正するところは無告知で修正していく。10年以上前とはいえ、海外の記事をこうして勝手に訳すのはいかがなものかという場合も、SNSで言う前にこちらへお伝えください。何もなければ他のアーティストも手を出してみたい。