The WIRE 2009年8月号 Invisible Jukebox Sleazy (Peter Christopherson)

デザインチーム・ヒプノシスとしてプログ・ロックのジャケットやミュージックビデオ(ナイン・インチ・ネイルズから松任谷由実まで)を手がけ、スロッビング・グリッスルやサイキックTV、そしてジョン・バランスとのコイルとして多大な影響を残したスリージーことピーター・クリストファーソンのインタビュー。

原典は編集段階で切られてしまった部分含めてweb上にアップされている。特にオミットされた箇所は訳が難しかったり、前後の結びつきが不確かなものが多いため、ここでは取り上げていない節もある。内容自体が大きく変わってしまうような訳と編集はない、はずである。比較したら粗がバンバン出てくるかもしれないが、そういう場合はこっそりとご指摘いただきたい。


#1. NICO / FACING THE WIND『THE MARBLE INDEX』 から

ニコとジョン・ケイルでしょうか?『ボーダーライン』(注・2007年発売のコンピレーション。『マーブル・インデックス』と『デザートショア』+未発表音源の二枚組)のものですか?このアルバムでは最も好きな曲ですね。

[ボーカルが始まる]

素晴らしいじゃありませんか?ご存知のように、スロッビング・グリッスルは数年前にテート・モダーンでショーをやりました。当初はICAでインスタレーションをやる話だったのですが、その時の私たちは何ができるか見当もつかなかった。メンバー間でミーティングするために当時住んでいたウェストン・スーパー・メアから電車に乗ったのですが、その時にオーディエンスの期待を裏切る類のアイデアを思い付きました。TGはいつだって聴衆の予測を、私たちのファンのそれすらも裏切ってきましたから。そこから誰かのアルバムをカバーする案に至ったのです。

そのアルバムはニコの『デザートショア』がふさわしいということになりました。『マーブル・インデックス』も大好きですし、特にこの曲はズバ抜けて良い。しかし『デザートショア』は完ぺきな作品だったのです。あれはフィリップ・ガレルの『内なる傷跡』のサウンドトラックと考えて良いでしょう。とても実験的な映画で、ガレル自身が裸でアイスランドをさ迷っている。ニコは白い馬に乗って現れ、息子のアリと共にコウノトリの巣の上に乗って川を渡っていく。

[ケイルのピアノが鳴る]

素晴らしいコードだ。

これは他のTGのメンバーにとってもアイデアに満ちた、実にマッドな作品です。私たちは正式にICAのシアターでスタジオ・インスタレーションを企画しました。私とクリス・カーターでベースとなるトラックを制作し、ジェネシス(P・オリッジ)のボーカルを3日間にわたって録音しました。同様に私たちは素晴らしいジャム、最近出たツアーCD『ザ・サード・マインド・ムーヴメンツ』の土台となるそれも録音しました。全てのライヴは物静かで辛抱強いオーディエンスの目の前で行なわれ、彼らへ捧げられました。

多くのボーカリストは自分の仕事を果たす時に他のメンバーをスタジオから追い出しますが、それを考えるとジェネシスは実に勇猛果敢です。不確かな素材、母語以外の言語が使われているようなものでもリハーサル抜きで取り組むし、オーディエンスの前で初めてやる時だって彼女は想像以上の成果を残す。

完ぺき主義なファンやコレクターのためにインスタレーションを収めた12枚組CD-Rも作りました。しかし、ニコのカバー・アルバムの方もオーケストレーションやアレンジを済ませています。この秋はメンバー全員が忙しいため、来年には出したいと思っています。新生インダストリアル・レコーズの大きなローンチとして年末には告知しますよ。

-『マーブル・インデックス』はたびたび難解で気が滅入るものと言われますが、ニコの歌はとてもメランコリックかつ感動的です。

それがニコのパーソナリティを十分に表しているかはわかりません。残念なことに彼女に会ったことがないのです。しかし、彼女は常にそんな感じだったと思います。当時のジョン・ケイルは(ニコと)素晴らしいレコードを残しましたね。

-ケイルのアレンジはこの曲のようにボーカルを核にしたものです。

彼女のヴィジョンを尊重したものだと思います。ジャケットにコダクロームによるスライドが使われているケイルのアルバムもそうでした。何という名前だったか。(注・72年のアルバム『アカデミー・イン・ペリル』)
とにかく、あれも良いレコードでした。理由が何であれ、当時のケイルはゴミ清掃のストライキや労働党の問題を用いて、世間への荒涼とした視点をパッケージしていました。そのスピリチュアルな方法はTGが70年代末に着手したものでもある。それはテレビがプログ・ロックやマッド、ザ・スウィートを日常に浸透させたことにも似ています。
TGを始めた時は、英国に文化的活動をサポートする制度はないようなものでした。当時のカルチャーは私たちが毎日目にしていた世界、ハックニーのメア・ストリートを歩いている時や、マッテルロのスタジオにいた時に見ていたそれを反映してはいなかった。当時はヤッピーという言葉もなく、フラット(共同生活)文化もありませんでした。ただの不毛な土地だったのです。この種のレコードは先駆と言える存在で、音楽的ではなく精神的な影響を与えてくれたものです。

-今よりもナイーヴな時代だったと思いますか?

でしょう。しかし、それが悪かったかどうかは関係ありません。仮に私たちが全く違う手法をとっていたとしても、ロンドン、特に西部の人々は程度の差こそあれど、みなシニカルで疲れていましたから。

-当時のTGは、ほぼ誰も見たことがない方法で対立し、挑発していました。しかし、人々が多くの音楽、アートを経たこの30年間、反応に対する挑発は難しくなったと思いますか?

そう思いますが、挑発はあくまで私たちが行なうことの副作用にすぎません。それが重要なことだと考えたことは一度もありません。単に事実を告げているだけなのに、いつも人々が「ショック・ロック」といった表現を用いることには少し驚かされます。TGやコイル、そして現在でも同じように試み、伝えていますよ。一般常識からすればオカシイとはよく言われますが、それをショッキングというのなら、そうなのでしょう。

今や人々は反因習的なものに慣れているから、そうしたものを狙っても上手くいかないと思います。それに、そこに意味はありませんよ。TGが使用したショッキングなイメージ、強制収容所だとかは多くの人々によって使われましたね?でも、その目的は私たちとは全く違うものです。彼らは世界の政治的情勢に言及したいのではなく、「俺らって悪趣味だろう?」と言いたいだけなのですから。

コイルにおけるセクシュアリティにも言えますが、確かにジョンと私は同性愛者であり、互いに関係を結んでいました。性的なオブセッションや逸脱行為も共有していましたが、それにはもう興味がありません。より重要なのは、私が興味を抱くものについての音楽を作ることです。

昨日の私のショーは信心、何の憂いもないそれについてのものでした。あるフィルムを見せたのですが、それはタトゥーで銃弾やナイフから身を守れると信じる人々を捉えたものです。彼らは私たちにそれを信じるか又は嘲るかを問いかけると同時に、信心が心を満たし、時には苛ませることを示してくれます。今はこういうことに興味があります。


#2. KARLHEINZ STOCKHAUSEN / GESANG DER JUNGLINGE 『STOCKHAUSEN EDITION No.3 (ELECTRONIC MUSIC 1952-1960』より

最後に聴いたのは随分前になりますが、これはシュトックハウゼンの『少年の歌』じゃありませんか?

シュトックハウゼンで最初に買ったのは『シュティムング』でした。もう長い間聴いていませんが、iTunesストアで売られているのを見たことがあります。

私はチャールズ皇太子も通っていた学校に進学する予定だったのですが、両親に作品を見せたのがきっかけでヨークシャーのアクワース、クェーカー系の男女共学の学校へ進学したんです。芸術に関してはとてもリベラルなポリシーを持っている、素晴らしい学校でした。
私は学内のラジオを手伝っていて、それは校内で放映されるようなものではありませんでしたが、話し手たちが共同の部屋で交流していました。そこの3年生が『少年の歌』を耳にして少し驚いたと思います。彼らはマッドの「タイガー・フィート」あたりを期待していましたから(笑)。『少年の歌』は最初に買った電子音楽の一つですね。

学校の音楽科はメシアンのような電子音楽のレコードも受け入れていました。それから、ポンテフラクトにあるW.H.スミス(注・英国の大手小売りチェーン)の中のレコード売り場にも興味を持ちましたね。売り場でフランク・ザッパやキャプテン・ビーフハートを見つけたり、電子音楽のコーナーをウロついたり。気になる表紙の本を少しめくってみるように、ウィリアム・バロウズの『裸のランチ』には目を奪われました。14歳の時のことです。店の奥で2時間は立ち尽くし、ページをめくるのが止められなかった。私の人生がそうであったように、偶然触れた本や作品によって知覚の扉が開くというのはとても素晴らしいことです。もし、あの日バスに乗ってW.H.スミスに行かなかったら一体どうなっていたことか。

-W.H.スミスにシュトックハウゼンがあるとは、時代を感じさせますね。

確かに。

-50年経った今でもこの作品は画期的と感じます。今日ではどう響きますか?

いつ発表されたかは、私にとって関係ありませんが、良い意味で今らしくないと思います。この手の音楽には明るくないのですが、『時計仕掛けのオレンジ』のサウンドトラックと同じように今でもフレッシュに感じますね。

-この感触はレディオフォニック・ワークショップやホワイト・ノイズに近いです。

もし大量のお金と時間、そしてパッチコードを用意して同じ方法をとればデリア・ダービシャーの古い録音に似たものが作れます。大小差はあれど誰もそれをしていませんが。正直なところ、デリアのレコードの最初のトリルだけ耳にしても、それとコイルの『ワーシップ・ザ・グリッチ』の判断がつかないと思います。あれはデリアのものと似た方法で作っていますから。

-シュトックハウゼンの声やエレクトロニクスへのアプローチと、サウンドのソースが特定しにくいコイルのそれは平行な関係にあると思っていました。

これまで手がけてきた作品において、それは大事な要素でした。今でもそうで、新生TGのショーを4回か5回ほどやりましたが、グッドなサウンドが鳴っていても、メンバーの誰がそれを出しているのかわからない場面が毎回ありますよ。私たちはみな異なる特徴を持ったテクノロジーを使っていて、ジェネシスはまだ彼が男性だった頃にやっていた時と同じようにベースを使います。コージーは新しいエフェクト機材やラップトップを使いますが、どんなサウンドなのか説明できないものになったりして、とてもエキサイティングです。たとえば、超高域な摩擦音が実は人の声であったり。

声のマニュピレーション技術はTGやコイル以外のプロジェクトに繋がったと言えます。ソイソングとスレショルド・ハウスボーイズ・ショアでは大量の声をスクラッチしてマニュピレートしていますから。ソイソングの新作ではボーカリストはサウンドのパレットと同じくらい重要な存在ですが、レコードの中に人間の声は確認できません。どこか、他の場所からやってくるものです。

-「他の場所から」とはどういう意味ですか?

私たちが今やっているティーザー・キャンペーンは、誘拐してきた子供をボーカリストにしているような見せ方をしています(笑)。しかし、実際に聴いてみると、すべての声は明らかにコンピューターで作られています。何もかもが人工的なんです。


#3. PHIL FAA - HEALING MUSIC RITUAL OF THAILAND Youtubeから

特定はできませんが、トゥヴァ共和国の音楽に聴こえます。しかし管楽器はタイのカーンのようでもある。

-これはタイ北部、ラオス近くの儀式音楽です。アニミスティックな儀式の練習を捉えたもののようで、重い病から回復に向かっている人に向けて奏でられます。タイの儀式音楽に手を出したことはありますか。

もちろん。最も大きな経験は北東部のイサーンと呼ばれるものです。長い歴史を持つ民族音楽で、エンターティメント的な使用以外に、このような治癒目的でも用いられます。

ラオスやビルマに向かって北上していくとゴールデン・トライアングルを通ります。そこは歴史的にヘロイン発祥の地という事実がありますが、それとは関係なしに北部の人々はとても奇天烈で、こうした伝統やスピリチュアルな音楽の使用がより根付いています。
北東部に住んでいる人たちの間にはカントリーのような音楽も存在していて、一部の西洋人にとっては耳障りでしょうが、大なり小なりアメリカのカントリーとの共通点があるんですよ。「トラックのそばを走り回るワンちゃん」だとか、そんな歌がたくさんあって、説明するならば、Kホール(注・ケタミンがキマっている状態をこう呼ぶ)に陥ったドリー・パートンのようなものと言いましょうか。

ケタミンを使ったことはありますよ。今の私はタイびいきで、その文化が好きなんです。徐々に好きなアーティストやジャンルを特定できるようになったり、音楽も作品に取り入れられるようになってきました。

-スレショルド・ハウスボーイズ・ショアのアルバム『フォーム・グロウズ・ランパント』に付いてくるDVDには、あなたが撮影したタイの儀式が収められています。舌を切断したり、頬をくし刺しにするような、とてもヴァイオレンスな内容です。(注・ショッキングなため各自自己責任でお願いします)

あれらの儀式はみなタイ南部の小さなエリアにあるもので、あなたが再生してくれたものとは全く異なるタイプです。彼らが言うには–私の意見ではありませんが–あれは地域のコミュニティのために行なうものなのです。舌をカミソリで切り取る時は過去に事故が起こった交差点といった場所で実行します。悪魔や、事故を起こした運転手に憑いた悪しき魂を脅かすのが目的なのです。

鈎で吊るすという点において、タイの儀式は有名なヒンドゥーやインドネシアのそれと直接的なつながりがあります。私にとっては、それらの儀式は実行する人の自我を表すものに見えますね。タイの人々は総体的にケア論理的な観点を持っています。如何にDVDの中の儀式が凄惨に見えても、それは良き意図があってのものなんです。

津波(2005年3月28日のスマトラ沖大地震によるもの)がやってきたのはいつだったでしょうか?10分間で4000人が亡くなった、タイにとって深刻な出来事でした。その晩、バーに務めていた少年少女たちは地元の寺院で一晩中お祈りして、教会に献金したり救済用に募金したのです。その見返りも手助けも求めない献身と愛は私にとってのエピファニー(本質を表す瞬間)でした。なぜなら西側で起こるであろうことと正反対だからです。

タイの人たちはみな当たり前のように幽霊を信じています。津波が起きた3か月後、タクシー運転手の間でこんな出来事が起こるようになりました。彼らがバンコクのホテルから西洋人を空港へと送る際、到着して後部座席を振り向いてみたら、そこには誰も乗っていなかったんです。一度だけじゃありません、100回、200回と起こったんですよ。タクシーに乗ったのは津波で命を落とした西洋人観光客の魂だったんです。

-それは音楽を作る上で影響を与えましたか?

そう思います。私が今やっているショーには明確に影響を与えている。もはやラップトップを前にして立ったり、ひと月前にプログラミングしたものをいじることに興味はありません。今では音楽を演奏し、興味深いフィルムを流しては、そう思った理由と何が重要であるかを実際に説明するんです。今の私のソロ公演は、スリージーおじさん(Uncle.Sleazy.)との奇妙な一夜、といったところでしょうか。


#4. NINE INCH NAILS / SUCK 『BROKEN』から

何のアルバムからかはわかりませんが、このコーラスをバンドのメンバーと録音したのはなんとなく覚えています。あらゆるロックよりも音楽的なインテリジェンスを感じるため、これこそNIN最良のスタイルだと思っています。トレントのことは大好きで、彼の音楽業界に対する徹底したアプローチは素晴らしい。彼自身は最高なんですが、レコード自体はそれほど再生していません。型にハマりすぎていますからね。これは90年代中頃の曲でしょうか?

-92年の『ブロークン』からです。

『ブロークン』?自分も関わったというのに気付けなかったとは恥ずかしい。しかし、この曲に映像はつけてませんね。

-『ブロークン』のビデオについて聞かせてください。レズナーが「最低なものを作ってくれ」と尋ねてきたそうですが。

90年代頭には彼ら用のビデオ、一般に公開するものをいくつか作っていました。ある時、トレントが電話をかけてきて、過去最高にヘヴィなものが欲しいと尋ねてきたのです。もちろん答えは「イエス、頼んでくれて嬉しいよ」。ただちにそれを作り始めました。
コイルは既にNINのリミックスをいくつか作っていて、それらは有名なホラー映画『セヴン』でも使われました。彼らと仕事をする上ではとても良い時期だったので、「ゲイヴ・アップ」を筆頭としたコンピレーションを作ることにしたのです。ビデオはスナッフな映画と、人々のそれに対するオブセッションについて言及したものです。

トレントに頼まれただけなので、ビデオはMTVなどで放映されることを想定せずに作りました。しかし、ビデオは最終的にレコード会社の下に集められました。会社側はその強烈な内容に頭を悩ませていたのですが、トレントがいくつかのビデオテープをヴェンチュラ・ブールバールといったビデオ屋にリークしてしまったのです。彼らはただちに20ドルのブートレグを3万本作り、それを売りさばきました。そしてNINはビデオなしでチャート入りし、口コミによって流通が広まった先例の一つとなったのです。そのブートレグのネットワークはビデオそのものが目的(注・転売稼ぎが目的だと思われる)のものではなかったので、NINのファンの大勢がコピーをコピーしては拡散していきました。

ブートのブートが作られては画質が劣化していくことで、この映像がフェイクであり、私が本当に伝えたいことの手がかりであるという意図は埋もれてしまいました。よって、残念なことに多くのキッズはそのビデオをスナッフな映画と信じるようになったのです。VHSを10回もコピーすれば、細部まで映らなくなってしまいますから、ラバーマスクをつけた男がチェーンソーで誰かの足を切断している程度のものにしか見えません。『ソウ2』や『ホステル28』はもうたくさん、という意見以上のものにはならない。
だから後悔してるんです。人々をたじろがせるのが目的のビデオではなかったのに。凄惨な目に遭っている様を目にすることで、拷問されたり殺されたりする誰かに共感できると私は考えています。それを直視することは難しいですが、私にとっては重要なことなんです。ハリウッドはグランギニョールのような手段で子供たちを勇気づけていますよ。「あの映画のあいつはスゴイ、目玉が飛び出してる」といった感じでね。

-メインストリーム上でも映像を手がけていますが、そうした仕事は割り切って受けていますか?

映像の制作を受け持っていた期間は86年から2001年までです。いくつかの賞をもらいましたが、そういう旨のメールを送ってくる人はいませんでしたね。対照的に、「とても感動した」とか「父親が亡くなった時、あなたの作品が励みになりました」とか「あなたの曲でエイズになった友人が勇気づけられました」といった具合のメールは毎日4,5通は受け取ります。毎日ですよ。

職業として映像を作ることをやめられた時は嬉しかった。2001年、ヴァージンに5秒間のビデオを作っていた頃のことです。会社の社長婦人から、充分でないので作り直してほしいと言われました。ビデオを作ること自体は簡単なことでしたが、もし彼女の言うとおりに作っていたら、コイルはロイヤル・フェスティヴァル・ホールでライヴが出来なくなっていたでしょう(注・作り直したらエゲツない内容になってしまうという意味だと思われる)。すると「断ったら、この街で二度と働けなくなりますよ」と返された(笑)。喜んでお断りしましたとも。

-NINやミニストリーといったグループがインダストリアル・ロックと呼ばれていることについて、どうお考えか興味があります。彼らのようなバンドが生まれた現象とスロッビング・グリッスルに繋がりはあると思いますか?

トレントと最初に会った時、彼は如何にTGが自分の意欲を刺激し、人生に影響を与えたかを話してくれました。哲学的にはインスパイアしたと言えるでしょう。音楽のスタイルとして繋がっているとは思いませんし、ある意味ではTGにおいて音楽は肝でありません。何かをすること、誰かを勇気づけることは、演奏が出来なかろうが音楽ビジネスについての知識がなかろうが可能なんだという真実こそTGが告げていたものです。私たちには強い意志があり、それによって色々なことが達成できた。ヘヴィーなドラムやギターのノイズよりも、その意志の方が重要なのです。

インディペンデント(自律的)なものは沢山の人々にとって重要です。NINやミニストリーが始まった頃だって、それは時と場所によって違うものでした。メインストリームの中ではパンク、ジョージ・マイケル、その他の物事が起こっていましたから。今やインダストリアルに興味はありません。しかし、話してきたようにトレントには多大な敬意を払っていますし、彼によるインストアルバム『ゴースト』は好きですよ。彼がツアー中にスタジアムで演奏するものよりもずっと素晴らしいと思います。

-先月のこの企画ではアリエル・ピンクに取材しました。彼はTGも参加していたコーチェラ・フェスティヴァルに来ていたので、TGの演奏を楽しんでは踊っていましたよ。アート・スペースにいる時と比べて元気な子供のようでした。

コーチェラでやったことはギャラリーでやったことと同じでしたよ。明日はグラスゴーのトラムウェイというギャラリーでパフォーマンスをやって、コペンハーゲンのロイヤル・アート・ギャラリーでも行ないます。ファンタスティックなのが、今のTGの音楽やスタイル、ジャンルといったものが、70年代に人々が目にしていた、不確定なそれから99.9%乖離していることです。昔のヒット曲を繰り返すような再結成ツアーとは違います。過去の曲もいくつかプレイしますが、17歳から20歳、それと同時に57歳から67歳の人々にも向けられているのです。そこにはある時期の我々や他のジャンルにあった連携が不在な一方で、直感的な何かがある。私たちが歳をとっていたり、外面が奇抜であることはどうでもよいことです。目にする人々は音楽からエナジーを受取るやいなや、我々と同じ存在になるのですから。


#5. PSYCHICK WARRIORS OV GAIA  / EXIT 23 『Psychick Warriors Ov Gaia』から

私とジョンは覚えきれないくらいにこの手の音楽を聴いていたため、これが誰かまではわかりません。87年ごろのものかと思えますが、より最近かもしれない。

-90年の作品です。コレはオランダのサイキック・ウォリアーズ・オヴ・ガイア、テンプル・オヴ・サイキック・ユースと繋がりのあったバンドです。

そんなバンドは沢山いましたよ。当時はコイルもこの手の音楽に手を出していました。それは大部分がエンジニアとの作業から生まれたもので、ダニー・ハイドはレイヴィーな作品をよく手がけてくれた。
そうした作品はジョンと私が踊りまくっていた時代を反映しています。セックスには置き換えられない類のエナジーですからね。80年代にHIVが爆発的な拡がり始めた時、私たちの世代は踊るためにクラブへ行きましたか?ドラッグのためでしょう?それは外に出て気軽にセックスすることの代わりとなっていました。
後悔はしていません。面白い話では、ジョンが毎晩の乱痴気騒ぎを撮影したはいいけれど、レンズの向きが逆で自分の目を写しながら歩き回っていたものがあります。シナプスを強く刺激されて連鎖反応が生まれた時は、それを楽しむように備えなければ。

-そうした体験は作曲する上でのインスピレーションになりましたか?

つまり、スタジオでドラッグを使っていたかということですか?もちろんです(笑)。『ラヴズ・シークレット・ドメイン』ではコカインやエクスタシーなんかを大量にやっていました。他のポップなバンドが同じスタジオを使っている時にもやっていましたね。ドラッグが創造的なプロセスを助けるかはわかりません。一般的には強烈なものとして語られ、深夜1時にスタジオに出るところが朝の7時にまで延びてしまうといった意味として扱われます。何故なら5時の時点では(スタジオを施錠する)鍵の色の区別が付きませんから。

ドラッグは作業の妨げにはならなかったと考えています。コイルの中で起こっていたことですが、ジョンは私よりもずっと多い量を使用しており、安定を保つために他の何かが必要となりました。彼の場合はアルコールです。不運にも、それは彼にとって深刻な問題となり、最終的には死へと繋がってしまいました。みながやらない時は彼もやりませんでしたからドラッグは克服できたのです。しかし、毎朝ワインのボトルを空けてしまうのには抗えなかった。
サイケデリックの類は、見たことのない景色やそこへのドアを繋ぐ手段です。しかし、素晴らしい景色を見た後にもそれがまだ頭の中に残っているなら、その方法を繰り返す必要はないとも思います。人生に不可欠なものではないですから。

『ワーシップ・ザ・グリッチ』はその体験への解答または反抗です。コイルはいつだって流行りのレイヴィーなものにならないように意識していました。一番それらしいのは『ラヴズ・シークレット・ドメイン』の中の数曲ですが、それらだって4/4拍子に収まるものではありません。

94、5年頃には陶酔を上回るバッドトリップを何度か迎えたことがあります。そこから私たちはサイケデリック的視点への関心と興奮を保ちつつ、踊り跳ねる感じや反復性を持たない新しいタイプの音楽を探し求めるようになりました。ELpHやタイム・マシーンズとしての作品は様々なドラッグで得た感覚を作り直すという意図でした。『タイム・マシーンズ』は5曲とも全てドローンで、大きな音で再生したら良い意味で違った聴こえ方をするのが興味深いです。自分が耳にしてきた中では最もピュアなドローンの一つで、アースといったドローン・バンドの手法を舗装したと考えています。

曲名はすべてアレクサンダー・シュルギンの本からとったもので、それらのドラッグは私たちも服用していたことがあります(注・『タイム・マシーンズ』の曲名はすべてケミカル・ドラッグの化学式から引用されている)。当時は米国のアンダーグランド化学史に没頭していて、まだポピュラーでなかったMDMAといった奇妙なものにも手を出していたと思います。シュルギンは化学におけるその分野でのゴッドファーザーでした。


#6. WILLIAM BURROUGHS & GUS VAN SANT / WORD IS VIRUS 『THE ELVIS OF LETTERS』から

こうしたレコードには疎くて、ジョン・ゾーンにも聴こえるし、サイキックTVにも聴こえる。わかりませんね。

-ガス・ヴァン・サント、『ドラッグストア・カウボーイ』の監督で、この映画にはバロウズもカメオ出演しています。バロウズの声の使い方としては如何でしょうか?ミュージシャンの中には、バッジとして、ヒップであることの象徴として彼の声を使う者もいるようですが。

ガス・ヴァン・サントは興味深い監督ですが、これはバッヂの類ですね。楽しんでレコードを作りたかっただけだったんじゃないでしょうか。私にとってバロウズの作品や声、パフォーマンスが持つ魅力とは、彼の肉体や人生観、セクシュアリティ、挑発性、頽廃、それら全てから発露するものです。いくつかの言葉をサンプルしただけでは意味がなく、とても退屈です。

この30年、バロウズの声をアーカイヴし続けてきました。最初の録音はインダストリアル・レコーズから出た『ナッシング・ヒア・ナウ・バット・ザ・レコーディングス』、79年か80年にジェネシスと私がコンパイルしたものです。実際にカンザスへ録音しに行きました。瑞々しい録音が得られましたが、バロウズは60年代にイアン・サマーヴィルとブライオン・ガイシンとで録音したテープを靴箱いっぱいに保管していて、私たちはそれも持って帰ったんです。それは言葉の断片ではなく、一つのまとまりを持ったものでした。
有名なものでは、警察の暴動の録音をサブリミナル的に再生し、それを背に特定のレストランの悪口を話すものがありました。

彼が独立宣言を読み上げるものもありました。いかに人々が武装する権利を持っているかを説いたものです。とても美しいパフォーマンスで、偉大とされる米国の教義が虚ろで、彼らが思うほど良くないものであるかをアイロニカルに指摘したビデオまで作られています。
とはいえ、流行りものに手を出すこと自体には賛成ですよ。声をリピートさせるような使い方は退屈に感じるので、私はやりませんが。

-コイル時代にバロウズと共作しましたか?

ジョンと私でバロウズに会ったのは4,5回です。ミニストリーの「ジャスト・オブ・フィックス」、確か私がビデオを監修した曲ですが、あれにはバロウズの射撃や朗読がサンプルとして使われていて面白かった。アル・ユルゲンソンと三人でカンザスへ行くことになったのは、ジョンがバロウズに一言入れたからです。

本音を言うと、彼の前に立つ時はいつも舞い上がった気分でいました。ニューヨークのバンカーで彼に泥酔させられた夜もあったけど、彼は私のタイプではないので特に何も起こりませんでした。


#7. Boyd Rice / Rise 『Rise』から

見当もつかない。

-ノンことボイド・ライスの「ライズ」です。

ボイドはジョンと親しい中で、ごく初期のコイルと彼で『ナイトメア・カルチャー』というアルバムも作りました。その時、プレスに書かれているような彼の右翼的観点を理解し、以降は縁が遠くなっていきました。私たち三人が顔を合わせた回数は少ないものです。人々にどう思われようと一匹狼であり続けるところは興味深いですが、くっついている者たちがファシスト的思想をおおっぴろげにするのは不快ですし、そうする必要はないと思います。

-そうは言いますが、あなたも(表現の)限界を押し上げています。

真実は人を限界の外側へと連れて行くもので、それが生み出す当惑は(特に英国文化圏で育った人間にとっては)凄惨な拷問よりも苦痛なのです。
コイルとボイドが共作してから長い時間が経った後、私たちは彼のレイシストというパブリックイメージが広まったことを受けて離れ離れになりました。ソーシャルな、またはポリティカル・コレクトネスが原因ではありません。私たちにとって常識であったというだけです。批判のために特定の人種・集団の特定の部分を抜き出すことは、それがゲイ、黒人、ユダヤ人、女性といった確かなカテゴリーに入っていようといまいと愚かしいものです。
人類が良い者と悪い者に満ちているということは明らかですが、何色のシャツを着ていようが、肌が何色だろうが、どんな化粧水を使っていようがそれには関係ありません。
82年か83年のニューヨーク、深夜にジョンとマーク・アーモンドと私の三人でフェティッシュなゲイ・クラブに行ったら追い返されました。理由は三人のうちの誰かが使っている化粧水がドラッグだからと言うんです。実に面倒くさい対応でした。興奮したプエルトリコ人のグループが入っていったばかりなのに(笑)。
これは人種差別ではありませんか?本の表紙でどんな内容かを想像することはできますが、人間はそうはいかないんです。

デス・イン・ジューンから派生したニュー・ファシスト的なバンドは多いですが、彼らがバスドラムを叩いたり、抑揚をつけて歌ってはホーンを吹くだけでいいと考えているならば、実に陳腐です。私の政治性は程度の差こそあれど、それらとは対極にあるため興味も抱けない。しかし、小さなレインコートや灰色がかった髭を身に着けることがクレバーだと思い込んでる人は多いようですね。


#8. COH & COSEY FANNI TUTTI / LOST 『COH PLAYS COSEY』から

わかりませんね。

-あなたも知っている二人の人物によるものです。一人は声を、一人はそれを操作したり、音楽を作っています。

ああ、なんということでしょう!すぐにわからなかったのが恥ずかしい(笑)。控えめなオープニングを流されたからわかりませんでしたよ。明らかにこれはイヴァンとコージーによるものです。嗚呼、情けない。すまないイヴァン。
全く違うタイプの二人によるコラボレーションで面白いですね。どちらかに偏らず、中間に位置することでグレイトなレコードになっている。イヴァンはコージーによるマテリアルを使って素晴らしいショーをやった。ラップトップを用いた実にパワフルなものでした。

-ソイソングと本作ではどれくらいの違いがありますか。

全く違うものです。レコーディングの現場に居合わせていないので、イヴァンがどこまでコージーの声と言葉に手を加えたかはわかりませんが、イヴァンのガイダンスのもとで、コージーが叩き台を作ったと認識しています。その作業はすべてコンピューターによるもので、完成してみると、彼女の声はサウンドそのものになっていたと思います。録音のプロセスが、後に作曲のそれとなるのです。

しかし、私とイヴァンの作業はより協同的ですよ。私がメロディのスケッチ的なものを作り、彼が楽器による土台を作る。私が声のラフな素材を送り、彼がマニュピレートする。その素材をふさわしい箇所に置いてみたり、時折めちゃくちゃに捻じったりして曲内のいたるところに配置します。
このトラックはAやBといったプロセスを急激に変化させているものですが、イヴァンとの製作は子供が顔を描いては、それを折りたたんだ上から体を描き、また折りたたむようなものです。ソイソングのプロセスは、さらなる進化または退化へと向かいます。

タイとロシアでは地球の反対側なので、インターネット越しのデータ共有に失敗してイライラすることがあります。しかし、イヴァンの才能と個性には多大な敬意を払っていますよ。互いに遠く離れた者同士で作業する価値があるというものです。

彼の経歴はとても変わっています。ゴーリキーで生まれ、兵役によって勉学から3年間離れていたのですが、彼の任務は政治犯用の模範囚収容所行き電車の警備でした。兵役を終えた後は、米国がまだ認識していなかった分野の科学を学ぶために進学しました。水中の音響にまつわる奇妙な実験をしたのかな?『レッド・オクトーバーを追え!』にあったようなそれだったか?80年代、彼はストックホルムのサイエンス・セミナーに参加し、そこで出会った人を通じて、妻と一緒にソ連を抜けだしたのです。
彼のパースペクティヴは変わっていて、コイルや西側のアンダーグラウンドな音楽にまつわる知識は限られたものです。その手のレコードは税関に賄賂を渡さない限り輸入できませんからね。しかし、彼はフレクシなどで70年代のロシア産電子音楽のすさまじいコレクションを持っているんですよ。

-COHとの共作は入手が難しいものもありますが、何故でしょうか?

当初イヴァンは頑固でしたから、ソイソングの作品を今のように入手しやすくする気はありませんでした。最初の一年間は、ソイソングのwebサイトで買い物をするにはパスワードが必要でした。それはショーを見に来るか、私たちからパスワードが書かれたカードを買わないと手に入りません。慣れていない人には無理でしたから、すぐに簡単に手に入るようにしました。
しかしソイソングのCDはすべて八角形なので、コンピューターやCDプレイヤーで再生しようという人はいません。よってCDは特別な存在となりました。mp3を無償で得ることよりも、苦心してCDを購入したり、対価を支払うことの方が価値があると私は考えています。たとえば、私がソフトウェアを得ようという時、十中八九(違法)ダウンロードせずに買いますよ。それは熱心に使い方を学ぶことにも繋がります。入手が困難であるほど、得た時の感謝は大きくなるものです。


#9. MATMOS / CALIFORNIA RHINOPLASTY 『A CHANCE TO CUT IS A CHANCE TO CURE』から

一聴してクラクラしましたよ。歯医者か手術室の音に思えます。

-美容整形手術の音から作られているものです。マトモスというグループですが、ご存知ですか?

このアルバムは聴いたことがなかったけど、彼らのことは知っています。昨年10月のブレインウェイヴス・フェスティバルには私も彼らも出演しました。使う機材がお互い同じで、興味関心もかなり共通しています。とってもナイスな二人ですよ。このレコードは後からチェックしておきましょう。
この作品はTGがイタリアのラジオ局RAIで取り組んだ『ジャーニー・スルー・ア・ボディー』を思い起こさせますし、基本的に使われているものも似ています。マトモスはとても陽気な連中なので、陰鬱な素材を使っていても最終的にはTGよりずっと明るいハッピーなチューンになるのですが。

-『ジャーニー』は肉体のノイズを記録したものですか?

私たちの身体から拾ったノイズもありますが、鉄製の人工呼吸器や心電図モニターなどの機械の音も使われています(笑)。

互いに鼻が潰れるまで身体を押し付けたるとしたらゾッとしますよね。しかし、冗談でやるなら楽しいでしょう。私たちは両方やりましたが。これは私の世界観に当てはまります。荒み切って暗黒なものは愉快にもなり得る。どんなに恐ろしいものでも、そこには別の一面がある。

英国からタイに移住した時期はジョンがアルコール中毒で苦しんでいてコイルにとっても厳しい時でした。当時の私のiPodにはトルコのドゥドゥクのように哀しい音楽ばかり入っていて、それらの曲は気分をよりメランコリーに、荒涼とさせます。その時以来、iPodからはハッピーなサウンドがなくなり、マイナーキーのものばかり入れるようになりましたが、これらによって日々が満たされているように感じますね。どんなものであれ私たちを満たしてくれますし、他者にとってもそうならば、それは善き事なんですよ。
『ジャーニー』は今言ったようなサウンドです(笑)。


亡くなる前年のインタビューである。iPodを哀しい音楽で満たすというくだりは泣けるし、私だってそうする時がありますと呼びかけたくなる。本筋とは無関係なところを幾つかオミットしたが、いずれは訳の訂正と共に追加していきたい。語調が固すぎるが、個人的にはこれくらいが好きというのもある。
コイルのジョン・バランスは晩年にはイアン・ジョンストン(絵画やパフォーマンスまで手がけるマルチアーティスト。アルバム『ジ・エイプ・オブ・ネイプルズ』のジャケットも手がける。2015年に死没)とパートナー関係にあった。TG再結成から暫く経った後、クリストファーソンはタイへ完全に移住するも2010年11月24日死去。ニコの『デザートショア』をカバーするプロジェクトは、2012年にX-TGの名前でリリースされた。訃報を受けて、タイの僧たちによる追悼の儀式が開かれたことは意外と知られていない。
コイルとしてはSCHAFTの94年作『SWITCHBLADE』にミックスで参加するほか、個人では松任谷由実のVHSやアートワークも手がけており、日本との接点は意外にある(ソイソングとしても来日してるし)。VHS『コンパートメント』は未見だが、パッケージだけ見るとvaporwaveっぽい。ユーミンがクリストファーソンを振り向かせるために●●の写真を送り付けたという逸話を耳にしたことがあるのだが本当なのだろうか?

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