The WIRE 2007年11月号 Invisible Jukebox JG Thirlwell

前回に続いてInvisible Jukeboxを翻訳した。今回はJG Thirlwell。
一人称など口調は日本の雑誌で使われていた形式に準じた。氏が日本のメディアに取り上げられたのは『ガッシュ』の時期が最後だろうから、邦メディアからはほぼ20年以上放置されていることになる。
自身の家のロフトを改造したセルフ・イモレーション・スタジオを本拠地にするほか、01年からはラップトップ上で楽曲を構築するスタイルになったサールウェル。ステロイド・マキシマス、マノレクシア、カートゥーンの劇判など今日のキャリアが一通り出来上がった時期のインタビュー。


#1. Radio Birdman / Descent Into The Maelstrom (アルバム『Radios Appear』から)

レディオ・バードマン?

-はい。これと似たサーフロック的なビートがあなたの『ホール』でも聞こえます。オーストラリアに住んでいた時は彼らから影響を受けましたか?

レディオ・バードマンはシドニーのバンドで僕の育ちはメルボルン、ヴァイブスは都市ごとに異なるものだ。シドニーのシーンは指向がデトロイトのパンク・ロック的で、MC5やストゥージズのようなロックン・ロールの一種が主だった。一方、メルボルンはバズコックスやマガジンといった英国のバンドに近かった。僕はレディオ・バードマンを見たことはないし、彼らの作品に大きな感銘を受けたこともないけど、メルボルンで見たセインツのショーは素晴らしかった。77年だったと思う。ザ・ボーイズ・ネクスト・ドア(後のバースディ・パーティー)や、その関係者は全員そこにいた。
77年から78年、メルボルンのシーンはとても小さくて、その中でザ・ボーイズ・ネクスト・ドアはしょっちゅう演奏していた。彼らは誰かの家のリビングでセットを組み立ててはそのまま演奏していて、そのパーティーによく行っていたものだ。彼らを見ていた人は少なく、バンドが解散したのは僕が78年後半にオーストラリアを去ってからだったと思う。今まで見てきた中でも最高のバンドの一つだ。

しかしセインツのショーは...第一に誰よりも速い演奏だった。当時はラモーンズも出てきていたけど、あっちはかなりデカダントだったね。(セインツの)クリス・ベイリーは満タンのジャック・ダニエルを片手に演奏を始めて、終わるころまでには飲み干していた。バンドのメンバーが曲を流しながら地面をスチームローラーでならしている間、ベイリーは地べたで女の子といちゃいちゃしていた。あれは良い時間だったな。

-退屈なメルボルンで刺激的に感じるものはありましたか。

メルボルンは文化的に孤立していると感じていた。母親がスコットランド生まれだから、何度かそこへ連れていってもらったことがあるのだけど、反対側の半球へ行っていることに気付いた時は、その事実に惹かれたね。ロンドンに滞在してカーナビー・ストリートにも行った。まだ幼い頃だったけど、とても魅力的な街だと思った。


#2. CHBB / Untitled (ユニットの自主制作カセットから)

わからないな。誰?

-CHBBです。リエゾン・ダンジェルーズの前身だったデュオで、DAFの元メンバーだったクリスロー・ハアスとベアテ・バルテルによるカセットだけのプロジェクトでした。DAFに関わったことはありましたか?

DAFのファースト・アルバムは大好きだったし、マーキー(注・ロンドンのロック・クラブ)でザ・フォールと対バンする予定だったギグを見た。当時僕はレコード・ストアで働いていて、"I'm ready for the 80's"と書かれていたバッジを持っていたから、あれは79年のことだね。そのコピーはヴィレッジ・ピープルのシングルからとったものだ。ずっと昔のことゆえにノスタルジアを感じるが・・・80年代はもう終わったことだ。当時、DAFは4人組で、クリスローはKorgのMS-20を演奏していた。ショーの後にクリスローに会って、バッジをあげたんだよ。当時の彼は英語を喋れなかったけど、僕たちはよく友人同士でたむろしていたし、彼も僕の家に何度か泊まった。


#3.Kip Tyler / She's My Witch (アルバム『Rockin' Bones 1950 PUNK and ROCKABILLY』から)

ロカビリーについては疎いんだ。これは何?

-キップ・タイラーの「シーズ・マイ・ウィッチ」です。あなたのボーカルにはロカビリーが持つ精神病気質があります。特に80年代の作品にはロカビリーやフィルム・ノアールの要素が一つにまとめられていますね。

まだロカビリーに手を出したことはない。「まだ」、だけどね。「まだ」の山積みだよ。お店で買ったことがないということだ。カントリー・ウエスタンやザ・グレイトフル・デッドとは違うからね。手を出したことがないジャンルだと思う。

-『ホール』、『ネイル』、『ソウ』といったアルバムを作る時、あなたが異なるキャラクターを創り出すのが不思議でした。

全ては僕の一部だ。クリント・ルインなどはステージ上の人格だ。6年前にバンドで演奏することをやめてから僕はキャラクターを用いなくなったけど、あれらは僕の一面であり、成長することを勇気づけるプロセスだったんだ。

-モーターヘッドからGGアリンといった風に、ロックのパフォーマーたちが背徳的になる場合に選ばれるモデルたちの選択肢は限られたものでした。しかし、あなたはホーンやストリングス、アップライト・ベースを音楽に導入していきました。

そうしようと決めてやったことではないんだ。僕がロックを物事の起点にしたことはない。僕はまったく新しいものを作るところから始めていて、サウンドのソースやオブジェそのもの、そしてテープ工作を中心に音楽を作っている。自分のベッドルームで使っていた機材も、ディレイやシンセサイザーだったからね。パンク・バンドで演奏するのとは違うし、そこから抜け出さなければならなかった。カセットプレイヤーのポーズボタンを押すところからスタートして、逸脱とそのためのアイデアの構築法をテープに記録していた。スタジオを使い始めたのはそれが最善策だったからだ。その場においてサウンドを使い何ができるのか、僕が夢中になったのはそのプロセスなんだと思う。奇抜だったり、複雑な方法を思いついた時は紙へメモすることにしていた。それをマルチトラック・スタジオ内で作り上げるようにしたんだ。

ロンドンに移動した時はエキサイティングな時間だった。ロブ・ヤングがラフ・トレードから出した本はノスタルジックにさせてくれるね。なにせ僕は当時、現地にいたんだから。僕が自身のレーベルを始めた時、それはほとんどレコードを作る場だった。アートの一つだったけど、限定エディションといった風のものは作らなかった。リスナー一人一人がオリジナルを持っているんだ。

-Reason(注・スウェーデン発のDAW)のようにマウスで、素材となるファイルを移動させるのとは違いますね。

今日では(比較できないほどに)異なる方法だよ。とても面白いものだ。でも、良くも悪くも(他人と作業することは)ほとんど民主的なプロセスになってしまうね。
初めて一緒に録音したグループはナース・ウィズ・ウーンドで、僕のアイデアのルーツだ。スティーヴン・ステイプルトンは音楽とは何か、レコードとは何かという点でとても進んだセンスを持っていた。あの時、スタジオで何かの機材が必要だったかどうかもわからないな。彼は「この椅子は良い音が出るな」といった風で、僕らは色々なものを使った。2週間後、その録音を聴いてみたら、それらが何の音かまったく認識できなかったんだよ。


#4. Lydia Lunch with The Anubian Lights / Champagne, Cocaine & Nicotine Stains (アルバム『Champagne, Cocaine & Nicotine Stains』から)

この声。これは『シャンペン、コカイン・アンド・ニコチン・ステインズ』だ。

-リディアが何をしているかまだ追いかけていますか?

僕たちは今も親密だよ。いつも話している。

-コラボレーターとして彼女はどうですか?

僕みたいな人間にとっては夢のような存在だね。僕のやることを許してくれるから。

--どのようにして二人は出会ったのですか。

当時、バースディ・パーティーのミック・ハーヴェイと暮らしていて、バンドがニューヨークへ行った時にリディアと出会った。その時、彼女も彼らと一緒にロンドンへ戻ってきた。僕は彼女の作品を以前から知っていたし、オムニバス『ノー・ニューヨーク』は発売日に買ったほどだ。『クィーン・オブ・シャム』も大好きだった。あの頃、僕はバースディ・パーティのいくつかのプレス・リリースを書いていた。それらはムラのある内容で、ちょっと風変わりな文章だった。リディアは僕の記事を読んで、自分のものについても書けないかと尋ねてきたんだ。彼女は自分のバイオグラフィーを1ページ欲しがっていた。だから家まで行って、話を聞いたり、色々教えてもらったんだ。僕たちは親しくなり、最初の共同作業はスカンジナビアのどこかでショーをやるつもりだった。ローランド・S・ハワードがサックスで参加する予定だったけど、彼が抜けてしまったので僕が代打で出た。その後にロマンスが実ったというわけだ。

-あなたたち二人と数人を加えたイマキュレイト・コンサンプティヴは、ここニューヨークで公演しました。

公演は3回だけ。僕とリディア、マーク・アーモンド、そしてニック・ケイヴだ。実際はリディアの提案だった。83年のハロウィンにニューヨークのダンステリア(注・ニューヨークにあったナイトクラブ)からパフォーマンスのオファーが彼女に届いたんだ。僕たちはショーのためのバック・トラックを作って、それぞれが曲を書いては何曲かでコラボレーションもした。リディアが演奏を始めると僕がサックスを吹いてデュエットもした。何曲かやって、たぶんマークとも何かしたと思う。最終的にはニックも加わった。一つのアンサンブルが上手く出来ていたと思う。ニューヨークのことは実際に訪れてから好きになった。成人してから初めて来た土地でもあるからね。あのショーが僕をここへ導き、そして今でも住んでいる。


#5. Don Byron / Powerhouse (アルバム『BUG MUSIC』から)

レイモンド・スコットの「パワーハウス」だ。でも、誰の演奏だろう?

-ドン・バイロンです。あなたはステロイド・マキシマスの92年のアルバム『ゴンドワナランド』でこの曲を演奏していますね?

ああ、もともとは僕の友人であるザ・ピッツ(注・イラストレーター。2015年没)の提案だった。二人でこの曲について話していて、彼がこのスタジオでやってみようと提案した。そしてガレージ・モンスターの名前で出すことにしたんだ。それはシンパシー・フォー・レコード・インダストリーから出た片面だけの7インチ・シングルで、もう片面はピッツによるエッチングだった。ステロイド・マキシマスのアルバムにも入ったね。「パワーハウス」はいろんなバージョンがあって、これはレイモンド・スコットのものに近いね。でも綺麗すぎるかな。僕たちはレイモンドの初期の作品を振り返って、彼のバージョンを研究したんだ。

-彼はあなたのカートゥーンのスコアに影響を与えていますか。

いや、それほどではないかな。レイモンド・スコットに加えてカール・スターリング、彼がレイモンドから引用した手法は僕の子供時代に深く根を張っている。モチーフとなるアイデアは次の1小節、または1小節と半小節への続き方や、ある場所から曲調を大きく変えるといったもので、これらには特に大きな影響を受けている。自覚していようといまいと、誰もがこれに影響を受けていると思う。

-『ヴェンチャー・ブラザーズ』のサウンドトラックへはどんなインパクトを与えていますか。

僕はあちこち動き回るような音楽が好きで、カートゥーンのものはライヴ・アクションのように扱うんだ。僕にとって、それは創造面でかなりのウェイトを占めていることであり、実に興味深いことだ。

-この仕事を得たきっかけは?

ステロイド・マキシマスを通してのものだった。番組のクリエーターであるクリス・マカロックは2002年の『エクトピア』をパイロット版の脚本のインスピレーションにしていたんだ。彼らは書き下ろしスコアを依頼してきたんだけど、当初僕はそれ程興味がなかった。「もしこれらのライセンスを得たら、使用料を支払う代わりにあなたがスコアを担当したということにしていいですか」と言われたので、「どうぞご自由に」と返答した。カートゥーン・ネットワークは『ヴェンチャー・ブラザーズ』を気に入って正式なプログラムに採用し、そしてクリスたちは再び僕にスコアを依頼して今に至る。

-マノレクシアとは何ですか?

マノレクシアは他とはまったく異なるプロジェクトだ。(他のプロジェクトと同じように)ほぼインストゥルメンタルではあるけど、違うところから始まっている。僕は広大でドローン的なものを求めていたのだけど、結果的にそうはならなかった。そこにある音の数々はかなりアレンジしたものが高密度で使われているんだ。僕がよく使うサウンドは瞬間的で息をつかせる間もないから、その音色を聞き取ることも出来ないくらいだった。僕はその音をはっきり聞き取れるようにして使ってみたかった。マノレクシアはそこをスタートに発展していったんだと思う。
ファースト・アルバムは進行していく音のピースとして始まった。ゼロから始めたものが60分のピースとなり、それがそのまま一つのアルバムとなった。


#6. Alice Coltrane / The Firebird(アルバム『LORD OF LORDS』から)

このバージョンは知らないな。

-アリス・コルトレーンによるストラヴィンスキーの「火の鳥」です。

ストラヴィンスキーは20世紀において衝撃的だった。ポストモダンなクラシック音楽の始まりと考えていいかはわからないけど、僕の中では最重要人物の一人だ。クラシックの話には明るくないけどね。たくさんの作品を聴いたり、作曲へのアプローチを読んではいたけど、音楽学校に行ったことはなかった。自分をミュージシャンだと考えたことさえない。まあ僕は音楽家ではあるけど、楽器のプレイヤーではないね。
子供の頃、いくつかの楽器を習った。チェロとパーカションだったけど、楽譜を読むのが難しいとわかってすぐにやめてしまったんだ。数年後、僕は独学でベース・ギターを始めて、そのあとシンセサイザーに手を出した。
楽器へのアプローチはいつもスタジオに入ってからのもので、オーヴァーダブの方法を学習してはそれをテープに録音したり、バックで鳴る楽器をエコーボックスに入れたりしていた。僕は楽器の周りに並んで座らないし、達者な演奏をしなければ楽器に直接楽譜を書いたりもしない。頭の中で作曲して、出来上がったらキーボードでそのメロディーを実際に出してみるんだ。

-『ネイル』のストリングスは実際のものか、キーボードによって作ったものか、どちらですか。

フェアライトだね。生のストリングスをたくさん使ったけど。僕の最新のライヴ・アンサンブルはマノレクシアの曲を演奏する時のもので、ピアノ、パーカッション、ラップトップを加えたストリングス主体のカルテットなんだ。だからストリングス用のスコアをたくさん書いているよ。今までも使ってきたけど、それらはサンプリングされたものだったから。『ネイル』に入っているフェアライトのストリングスは、正にサンプリングのテクノロジーの夜明けだった。

-なんと!それらは奇妙なピッチで収録されていますね。

僕はいつも楽器本来の用途の範疇を超えている。それはライヴ用に書き換える時の問題にもなるけどね。スタジオを使い始めた頃、僕はテープ・ループ、ポーズボタンやヴァリスピードといったアイデアを使っていた。サンプリングは僕がそれまでやっていた方法を一まとめにするものだったんだ。このロフトを自分のスタジオにするまでは、異なるスタジオ間をあちこち移動していて常に楽器が手元にあるわけではなかった。自分のサンプリング用機材を得てからは、それを基にして作るようになったんだ。

ストリングスの譜面はクロノス・カルテットに書いたり、ロボットの楽器隊と演奏するプロジェクト用のものも書いている。LEMURと呼ばれる組織だ。
彼らは一つの楽譜を依頼してきて、そこにライヴ用の楽器も追加してほしいとのことだった。だからストリングスのカルテットを加えたんだ。今僕はこのプロジェクトを拡張し、ロボットとカルテットのためにいくつも楽譜を書いている。来週はギターを担当するロボットが来て、セッションするんだよ。


#7. 浜崎あゆみ / Startin (アルバム『SECRET』から)

Jポップかな?

-はい、アユミ・ハマサキ、Jポップのマドンナです。高密度かつ複雑なプロダクションで、あなたの興味を引くと思いました。ポップに対しては、観察する立場から注意を払いますか?

ヒアリングのプロダクションとその技術において、作り手が何をしているのか。ミックスとコンプレックスは特にね。楽しい時間だよ。最近はサイケデリックもたくさん聴いている。自分でもわからないけど、サイケデリックはいつもこちらの常識を飛び越えてくるんだ。いつもサウンドトラックを聴いているのだけど、サイケデリックに対してはなかなか注意を払えなくて、その聞き取ろうとする段階をつい無視してしまう。多くのトリックがあって、それらのアレンジの癖は音楽からは聞き取れないものだ。それはポップを観察している時の時間に近いよ。今でも古く聞こえないし、とても新鮮なサウンドだ。

-(サイケデリックが特別なのは)アイデアが続かなかったからでしょう。

その通りだ。68年で終わってしまったものの一つだね。だから路上のセールを通り抜ける時はドキドキするよ。先週末はこのザ・フォーリン・エンジェルズのアルバムを見つけた。今まで聴いたことがなかったバンドで、これがレトロ志向のバカげた試みなのか、本当に67年に出たアルバムなのかわからなかったんだ。家に帰って確認してみたら、本当に67年のアルバムだった。まだ発見されていない宝石がたくさんあるということだね。


#8. White Zombie / Thunder Kiss 65 (アルバム『La Sexorcisto: Devil Music Vol. 1』から)

ホワイト・ゾンビだ。

-あなたはこのレコードをプロデュースしたけど、レーベルは当時これを却下したと聞きました。何故そうなったのですか。

いや、それは正しくないな。僕がプロデュースしたのは彼らがゲフィンと契約した時のデモだ。アルバムをプロデュースしたと思われたけど、僕との連絡が滞っていることに気付かないうちに彼らはアンディ・ウォレンスと出会った。僕の方が良い仕事が出来たと思うし、実際に僕らがデモでやっていたことの方がずっと良かったんだよ。

-彼らと知り合ったきっかけは?

87年の『ソウル・クラッシャー』を初めて聴いた時に好きになった。もちろん、ロブ・ゾンビはあのアルバムを嫌っていたよ。彼らがあのアルバムを認めているかどうかすらわからないね。かなり狂っているから、僕は好きなんだけど。その時から彼らと知り合って、よく会いに行っていた。同じ頃、ゲフィンがバンドのことを嗅ぎつけてきて、僕にバンドのプロデュースを打診してきた。たくさんの下準備をして、その結果デモが出来た。バンドはとても素晴らしくなったよ。

-90年代半ば、あなたはたくさんのリミックスを手掛けました。レッド・ホット・チリ・ペッパーズ、ナイン・インチ・ネイルズ、プロン、パンテラなど・・・これらは仕事として請けていたのですか(注・文末の原文は「Were those just money gigs? 」。gigは「一回ごとに契約する種の仕事」という意味もあるらしいので、こう訳した)

おかしな時期だった。そんなつもりじゃなかったのにあちこち手を出してしまって、充分に自己管理できていなかったんだ。精神的にかなり病んでいたから、それほどやる気もなかったはずなのに。
それは2つのリミックス、EMFとプロンのものから始まった。当時、メタルのリミックスなんてものはなかったからプロンの方はヒットしたし、転換点にもなったと思うよ。トップ30に入るようなヒットではないけど、確実に世間でも聞かれていたからね。実際、バンドはライヴでその曲を僕のリミックスっぽいアレンジで演奏するようになった。プロンの一件で多くのA&Rは僕のことを知り、自分たちが抱えるメタル・バンドを宣伝するには良い手段だと思い始めた。これらの出来事が同時に起こったんだ。僕はいくつかのバンドを聴いたけど、彼らを好きになる必要はなかったし、それらの持つポテンシャルに対して自分に何が出来るか、ということの方が興味深かった。残念ながらメタルのバンドばかり来て、僕がやりたかったものではなかったのだけど。当時はむしろトリッキーあたりと何かしたかったね。


#9. Duran Duran Duran / Pilldriver (アルバム『VERY PLEASURE』より)

デュラン・デュラン・デュラン。知っているよ。エド(・フリス)という名前だったと思う。何度か会ったこともある。ジェイソン・フォレストから紹介されたんだ。彼はあのシーンの王のような人物だね。

-この曲の背景にはあなたがフィータス・アート・テロリズムでやっていたドラム・プログラミングのアイデアがあります。

うーん、フィータスとこれが繋がっていると思わないな。22年後の作品だしね。僕が当時使っていた技術は、今では標準となっている方法の源流の一つだったんだと思う。時代が変わったんだ。

-ベースのレヴェルは、今日聴いてみると常軌を逸しています...

ほとんどディストーションだね。今ではみんなが乱用しているものだが、ポップでは使われない。
ブレイクコアにはいくつか好きなものがあるのだけど、あれは息をつくのも難しいくらいに音が連続している。隙間がまったくないんだ。最初の数分間はとても爽快なんだけど、その後は、うん、打ちのめされて降参しちゃうね。


2019年にはインタビューに答えてもらえるという僥倖に恵まれた。

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