スティーヴン・ステイプルトン (Nurse With Wound) インタビュー 『FEECO』vol.1 掲載分(2018) 編集版 前半

『FEECO』創刊号収録記事のミラー。2017年にアイルランド西部のクールータで敢行したスティーヴン・ステイプルトン(Nurse With Wound)へのインタビュー。長くなってしまうのと『ナース・ウィズ・ウーンド評伝』と重なる部分があるため、同書に掲載されなかった箇所を中心に公開する。例によって質問と回答を読みやすいように校正し直した箇所がある。註は最下部にて。残りの部分は後日無告知で更新予定(2023. 3/11)
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-アイルランドに移住するきっかけは何だったのですか。

87年ごろのロンドンが酷い状態にあったから。70年代から80年代頭までは素晴らしい街だったが、 マーガレット・サッチャー政権になってからは、すべてがあっという間に悪くなっていった。 上階に住んでいた隣人が射殺されたり、僕自身も道端で喉元にナイフを突きつけられたこともあった。 当時一緒に住んでいたダイアナ・ロジャーソンもバッグをひったくられたし、住むには難しい環境になっていたんだ。赤ん坊も生まれたばかりだったしね。ロンドンから離れたくはなかったけど、市内はどこも家賃が高かったので英国の北部や西部に引っ越すつもりだった。
そんな時期に不思議な出来事が起きた。クリス・ワリス(註1)という友人がいて、彼の古い友人(その人も今この土地の隣に住んでいるんだけど)がインド旅行の前に僕の家に数日泊まった。 彼女に引っ越しの相談をしてみたら、「アイルランドはパラダイスですよ」と返ってきた。 さらに彼女は現地でコテージ付きの土地を売りたがっている男について教えてくれた。その男はハッパを育てていて、家族と一緒にポルトガルへ逃げるために現金が必要だったんだ。僕はCurrent 93のデヴィット・チベットに話を持ちかけて、そこを共同で買うことにした。コテージについては絵で説明されただけで、実際に土地を見ることなく買ったというわけだ。土地について聞いてから転居までたった2カ月。引っ越しが終わったのは88年のクリスマスだったと思う。

-整地して家を建てている途中は大きなヴァンを移動手段兼家屋にしていたそうですね。デヴィット・ チベットもこの土地の開拓を手伝ったのですか。

ノー(笑)。 彼はそういうことに興味はなかった。ここに来たのも実際は2回か3回ほどだよ。 その後、彼はグラスゴーに引っ越したりしてたけど、今は英国のヘイスティングにいる。クールータにはもう18年間は訪れていない。

-時系列に沿ってお話を伺います。覚えている中で一番最初に経験した音楽はなんですか。

覚えているもので一番古いのは『One Million Years B.C.』(註2)。ラクエル・ウェルチが出ていた映画だ。チー プな恐竜映画だけど、とても奇妙でエキゾチックなパーカッションが大好きだった。他には母親が毎朝ラジオを流していて、そこでかかっているイージー・リスニングも好きだったな。今でも手元にはイージー・リスニングのCDが200枚ほどがある。

-イージー・リスニングというのは例えばジェイムズ・ラストのようなものですか。

…いや (笑)、BBC Symphony Orchestraの方が好きだった。30年代から40年代のね。ジェイムズ・ラストは当時でさえ安っぽかったんだ。

-NWWにはラストの名前を使った曲名がありました。

そう、彼に捧げたものだ。ジェイムス・ラストは僕にとってダメな音楽の典型で、本当に酷いものだった。ドイツではシュラーガーと呼ばれる、オーケストラルなポップで酒を飲むことについて歌うような、ゾッとする音楽だ。これが曲名にした理由だね。

-過去のインタビューではT-Rex、とりわけ「Elemental Child」も好きだとおっしゃっていましたね。

そうそう、そうだ、 あれはとても良い曲だ。僕は彼らがまだTyrannosaurus Rexと名乗ってい た頃から聴いていた。71年くらいだったかな。 The Velvet Undergroundもよく聴いていた。

-The Velvet Undergroundのアルバムはいずれも聴いていましたか。

『White Light / White Heat』が特に好きだった。「I Heard Her Call My Name」のよたついたギターソロが大好きだったし、「Sister Ray」のフリークアウトっぷりも完璧だった。13歳の頃、 あのアルバムを自分の部屋で延々と聴いていた。

-同じ頃にクラウトロックのレコードに触れたそうですが、きっかけを教えてもらえますか。

最初に買ったのはAmon Düülの『Psychedelic Underground』…買い物のた めにウエスト・エンドにあるヒッピーのブティックへ行った時のことだ。 当時はみなバルーンパンツを買っていて、僕もそれ目当てだった。 とあるレコード屋をのぞいてみたら、そこで『Psychedelic Underground』を見つけた。ジャケットに一目惚れして買ったんだが、 そのせいでパンツは買えなかった(笑)。あのアルバムが僕の人生を変えた。

-Amon Düülはヒッピー的な集まりから始まりましたが、ヒッピーのライフスタイル、 例えばコミューン生活はどう見えていましたか。

パンクのコミューンやヒッピーのコミューン、あちこちに行った。 良いやつもいれば悪いやつもいたよ。 Guru Guruがドイツで開いていたコミューンに数週間滞在したことがあって、そこにはKraanもいた。とても良いところだったよ。

-Guru Guru経由で多くのクラウトロック・ バンドに会ったんですよね。

その通り、Kollective、Embryo、Birth Control、 Floh De Cologne…たくさんだ。ほんの短い間だけど、コニー・プランクにも会った。

-コニー・プランクはどんな人でしたか。

彼は Floh De Cologneの『Tilt』を録音中だったから忙しかった。そして僕は僕でまだ子供、なによりシャイだった。フレンドリーな人だったけど、 特にどうとは言えないな。

-その後はウリ・トレプテと一緒に暮らしていたこともあったんですよね。

ウリともドイツへ旅行していた時に出会ったんだ。 ドイツから帰国した後、今度は彼がロンドンに来て僕の家に3週間滞在した。

-あなたの家に?

そう。当時は北ロンドンでスクウォットしていた。短期間だけどウリはFaustでも演奏していて、アルバムの録音のためにロンドンを訪れていた。彼はRecommended Recordsのクリス・カトラー やジェフ・リーとも住んでいたよ。
僕はウリのコンサートの手はずを整えたこともある。 チェルシーにあるThe Wolrds Endという会場でのコンサートは素晴らしかった。とある地下のバーでは彼がグルグル脱退後に始めたSpaceboxのライヴもやった。巨大な機材を並べて、マイクとベースギターのみで演奏するものだったが、客はたった10人、 それも途中で全員帰ってしまってショックだったな。その直後、ウリはマイクとギターを手に路上へ出て、キングス・ロードのど真ん中で歌って交通をストップさせてしまった。同じ頃にはRock In Opposition(註3)が発足され、コンサートが開かれた。初回のポスターは僕がデザインしたんだよ。

-当時からデザインの仕事を始めていたのですか。Hipgnosis、それもPink Floydの『Animals』 ジャケットに関わったという噂もありますが。

やっていたのはグラフィック・デザイン全般。 ロゴを描いたり、グラスのギルディング(ガラスへの箔付け) もやっていた。
仕事でHipgnosisを手伝う機会があって、それが『Animals』 ジャケット用にツェッペリン・カンパニーが作った豚のペイントだった。 最初の一つはサフォークに落っこちて壊れてしまったから、彼らは新しい豚が必要になった。そこで僕が当時務めていた会社に依頼したというわけだ。 他にもバンドのツアー中に売られた雑誌のためにグラフィティも描いたし、ロンドン市内のとある橋にペイントした時なんて逮捕までされた。
豚はロンドンのバタシー発電所に設置されて、そこから2マイルほど離れたところに線路の引かれた鉄橋があった。そこはThe Animals…『The House of the Rising Sun』で有名なグループね。彼らが自分たちのピクチャ・ディスク用写真(註4)に使っていたんだ。その写真では橋にバンドの名前が大きく塗られていて、Pink Floydはそれにちなんだことをやろうとしていたんだ。 でも僕が橋にグラフィティを描いていると、そこに警官がやってきた。「Pink Floydのために仕事してるんです」と説明しても、「今すぐやめろ」 と言われるだけ。会社に「警官が来てますけど」 と電話したら「心配するな、Hipgnosisが全部責任をとる!」と言うものだから、そのまま続けたんだ。 すると突然警察の車がやって来て、そのまま拘留されてしまった。翌日、上司は僕を釈放するためにやってきて、その日の給料を2倍で払ってくれた(笑)。

Throbbing GristleやCoilのメンバーにもなるピーター・クリストファーソンとはHipgnosisを通して知り合っていたのですか。

彼に作品を見せる機会があったから。その時に彼が用意してくれた椅子に座ったんだけど、それが実に素晴らしい音を出してね。【きしみを模した奇声を上げる】その椅子を譲ってもらって、後に デヴィット・ ジャックマン(Organum)との録音でそれを使った。

-Nurse With Woundの初期メンバー、ヒーマン・ パサックとジョン・フォサーギルらに会ったきっかけは?

ヒーマンはFocusやヨーロッパの電子音楽が好きで、同級生の中ではとても先進的だった。彼はしょっちゅうミュージシャンに会っていて、ClusterやAeraが彼の家に来たこともある。 NWWを抜けた後、 彼はデヴィット・ヴォーハウス、White Noiseで知られる男のアシスタントになった。
ジョンとはロンドンの中古レコード店で出会った。その時、彼は母親と一緒だったね。 その店には何百ものレコードがあって、 彼はそこから僕の知らない音楽を見つけ出していた。 彼の肩越しに 「それ面白そうだね、 ちょっと見せてもらってい いですか」と声をかけたのが馴れ初めだ。好みが一緒だからすぐに親しくなったよ。

-あなたたち3人はしょっちゅう中古レコード屋に行っていたそうですが。

ほぼ毎日。当時のロンドンは素晴らしい街だっ た。素晴らしい中古レコード屋が20件はあったよ。毎週土曜日になると、僕、 ヒーマン、ジョンの三人で集まって、すべての店を回っていた。当時、ヨーロッパの実験的な音楽は「新譜」 の棚にはなかった。フランスやドイツ、イタリアのものは中古に流れていたんだ。その手のレコードは『Sounds』や『NME』 宛に送られてはいたけど、 雑誌の連中はまともに聴かずに中古屋へ売っていたから。僕はいつも店に出入りしていたので、叩き売られていたそれらのレコードをキープしてもらっていた。「スティーヴ、これはどうだ?」、「オーケイ、それ買った!」という具合でね。

-日本のレコードもその時手に入れたのですか。『Merzbild Schwet』 では東京キッドブラザーズのレコードが素材に使われていましたが…。

あの声がとても良かったからだ。 何を喋っているのか、意味はわからないけどね。

-2ndアルバム 『To The Quiet Men From A Tiny Girl』のタイトルも日本のレコードからですね。

Tolerance。レコードを売るために添えられていた日本語の文章を翻訳したものが奇妙かつ不吉な内容だったから気になったんだ。 リリース元のVanity Recordsは日本のレコードをディストリビュートしている小さなコミュニティの中では知られていた。ToleranceやBrast Burnのアルバムはそこから簡単に手に入った。

-Nurse With Woundリスト(註5)に入っているもの以外で好きな日本のレコードはありますか。

君が持ってきた本 (註6)に載ってたから思い出したけど、After Dinnerは大好きだよ。 あとKatra Turana、『Cochin Moon』(細野晴臣&横尾忠則)も。

-細野晴臣は色々なプロダクションを手がけていま すが、彼の他作品は知っていますか。

ノー。Yellow Magic Orchestraのレコードは何枚か聴いたけどイマイチだった。Kraftwerkっぽくて。『Cochin Moon』 はあれらとは異なる、実にエソテリックなアルバムだね。
Kraftwerkも最初の2枚は素晴らしいけど、聴けるのは『Radio Activity』まで。『コンピューター・ワールド』のような有名になった時期のアルバムは嫌いなんだ。

-最初のアルバム『 Chance Meeting On A Dissecting Table Of A Sewing Machine And An Umbrella』を作った時のことを教えてください。

ロンドンのウォルター通りにBMS(ブリティッシュ・マーケティング・サーヴィス)というスタジオがあった。とても高価なスタジオで、 広告業者がよく使っていたところだ。 僕は仕事でそこの窓を塗装していて、作業してる後ろでエンジニアたちが休憩をとっていた。その時『Monty Python』、劇中の「シリー・ ウォーク」で有名なコメディ俳優ジョン・クリー ズが向かいの通りを歩いていたんだ。黒いハットから手に持つブリーフケースまで番組そのままだった。それが面白くて、エンジニアたちと話すきっかけになった。 音楽について話していると、エンジニアの一人が「もしセッションしたいなら週末に安くスタジオを貸すよ」と言ってくれた。スタジオ代がいくらだったかは正確に思い出せないけど、とにかく安かった。僕は 「エクスペリメンタルなバンドを組んでます」なんて嘘をついて、その日の晩にジョンとヒー マンに電話したんだ。「一緒にやるぞ!」 とね。
僕たちはまともにギターを弾けなかったから、スタジオに入ってすぐに、リハーサルなしで録音を始めた。エンジニアはそれを録音して、やがて「 Blank Capsules Of Embroidered Cellophane」 (アルバムのB面) になった(笑)。 作業は録音が6時間、 翌日にミックスを3時間。48トラックの豪華なスタジオで録音できたのはとてもラッキーだった。クリアで歯切れのよい音が録れたからね。違うスタジオだったら確実に違う結果だったと思う。ダーティーなサウンドやノイズは嫌いなんだ。BMSスタジオはその点においてパーフェクトだった。

-United Dairies (ユナイテッド・デアリーズ)は自分たち以外のアーティストも多数リリースしていきます。 レーベルを始めたは何故ですか。

ファースト・アルバム500枚を3カ月で売り切った時、「簡単だ、これがパンク、DIY だ」と思って、 自分たち以外のレコードも出すことにしたんだ。僕たちはマッドなレコード・コレクターで、 フランスのFuturaやドイツのOhr(註7)、Brainといったレーベルのファンだった。とりわけ僕はOhrを崇拝していて、いつだってあのレーベルが理想だった。

-United Dairiesは実在する乳業会社です。何故この名前を選んだのですか。

当時、好きなバンドにMilk From Cheltenhamというのがいた。ある日彼らのことを考えていた時に、家の近くにあったUnited Dairiesの古い工場のことも思い出したんだ。「こうしよう、United DairiesプロデュースのNurse With Wound!」というわけだ(註8)。

-最初の契約アーティストはLemon Kittensでした。

本当はL.Voag、 彼によるNancy Sesay And The Melodairesのレコードをリリースしたかった。トライしてみたけど実現はしなかった。

-ジョンとあなたとで、レーベルの理想像にズレが生じていたと聞きます。

一つしかないのにお互いがレーベルを持っているような状況だった。ジョンはBMSスタジオのエンジニアによるバンド、Bombay DucksのレコードをUnited Dairiesからリリースしたけど、 良くないレコードでね。その後、彼はサブレーベルとしてExperiments Recordsという枠を作って、The Shiny MenとExperiments With Iceのレコードも出した…Bombay Ducksの変名でこれまた酷いレコードたちだよ。 さらにジョンはAnthony And Paulというサブレーベルも設けて、Two Daughtersをリリースした。

-Two Daughtersは特に謎が多いバンドです。

キーボードとループを使ったバンドだよ。 そうそう! 最近、 彼らの音源を再発したいのだけどマスターテープを持っているかと日本人から尋ねられたことがあったな。(註9) テープはたぶんどこかにあると思う。
話を戻すと、ジョンと対立するようになった原因は、『Hoisting The Black Flag』というコンピレーションだ。 ジャケット端には参加アーティストの名前が並べられていて、Lemon Kittensが先頭になっていた。僕にはそれが不服だったんだ。

-『Hoisting The Black Flag』は不思議な面々が参加しています。King Crimsonでヴァイオリンを弾いていたデヴィット・クロスは特に気になるのですが、どういった経緯で参加したのですか。

デヴィット・クロスはジョンの友人の友人だ。 ジョンはクリムゾンのファンだったけど、僕は違った。英語で歌っているものは好きじゃないんだよ。 クロスにはハロルド・ピンターの詩を朗読してもらって、それは NWW の「I Was No Longer His Dominant」に使われている。
そういうわけで僕とジョンとは違う道を進むことになったんだが、その前にOperating TheatreのLP や、いくつかのコンピレーションを作った。『In Fractured Silence』(註10)や『An Afflicted Man's Musica Box』だ。 後者はAMMやジム・サールウェル (Foetus)、ジャック・ベロカル、Animaらが収録されていて、ジャケット違いのバージョンがある。

-『An Afflicted Man's Musica Box』ジャケットはファースト・プレスがあなたのコラージュで、その次のバージョンはProduktionによるものですね。

Produktion知ってる?そうそう、焼死体に見えるアレは全身をコーンフレーク、朝食のシリアルで覆ったものなんだよ(笑)。彼らとはWhitehouseのウィリアム・ベネット経由で知り合ったんだ。

-彼らはアーティストであり、ヘアドレッサーであったと言われています。

その通り。 ケンジントンにあった彼らのスタジ オにはよく足を運んだ。僕は仕事でケンジントンの通りの壁によくペイントしていて、 サイケデリックなものをいくつも描いていた。

-オックスフォード通りのヴァージン・レコードストアでも多くの友人たちが働いていたんですよね。

僕の職場はポーランド通りにあるグラフィック・スタジオで、 オックスフォード通りのヴァージン・レコードはそこの向かいにあった。店ではジム・サールウェル、トレヴァー・レイディー、ロバート・ヘイが働いていた。
『Chance Meeting』を聞かせるために店内でレコードをかけてもらったら、ジムに「とってもジャジーだ」と言われたよ(笑)。当時、彼らも新しい音楽に夢中だった。UKパンクは76年から78年の間に終わっていたから、興味はニューヨークのバンドへ移っていた。The Contortions、 リディア・ランチのTeenage Jesus And The Jerksとかだ。

-ロバート・ヘイはSemaとしてUDからもリリースしました。

彼の音楽は好きだ。 ただピアノソロじゃなくて、 ギターやエレクトロニクスも使ったSema名義の方が良かった。ロバートは『Valentine Out Of Season』をUnited Dairiesからリリースしてくれたら、その次にはSemaのレコードを作ると約束した。しかし、 僕がアイルランドへ移住した頃に彼はヴァージンをやめてしまって、互いに連絡がとれなくなってしまったんだ。結局Semaのレコー ドは出ずに終わった…残念だ(笑)。


1.クリス・ワリス:ロンドン在住時代から親交のあるアーティスト。アイルランド移住をきっかけにステイプルトンとは家族にも近い仲として、現在もクールータ敷地内に住んでいるとのこと。映像を手がけることもあり、アイルランドに移住した一家の幻想的ホームムービー『Lumb's Sister』はワリスの手によるものである。

2.『One Million Years B.C.』:先日逝去したラクエル・ウェルチ主演のSF映画。石器時代を舞台に、レイ・ハリーハウゼンのSFXが光る。余談だが、ハリーハウゼンの美術で有名な骸骨は、NWWのアートワークにも時折コラージュされる。

3.Rock In Opposition:1978年3月にHenry Cowらによって商業化に傾いたロックへのアンチとして提唱・立ち上げされた理念にして精神的共同体。

4.The Animalsのジャケット:ステイプルトンの勘違いがあると思われる箇所。The Animalsのシングル『Animal Tracks』(1965)は線路を舞台にしたジャケットであるが、バンドのロゴは確認できない。当時にプロモ写真か何か?

5.Nurse With Woundリスト:ここを参照。

6.持ってきた本:当日に筆者が持参していた自作ミニコミ(2014年製)。

7.問題児ロルフ・ウルリッヒ・カイザーが運営した短命のジャーマン・ロック・レーベル。Guru Guru、Ash Ra Temple、Limbus 4など今日のクラシックを多数輩出。

8.Nurse With WoundとUnited Dairies:NWWの名前はジョン・フォサーギルが無数の単語群から選び抜いて出来上がったフレーズ。UDの由来に関してはデヴィット・キーナン『England's Hidden Reverse』で述べられているものと今回の取材間では若干の差異があり、『ナース・ウィズ・ウーンド評伝』においては後者を参照している。『England's~』ではオランダのCow Records(Dangerというバンドのレコードを一枚だけリリースした)からひらめいたとのことである。

9.Two Daughtersのマスターテープ:この取材中最大の謎となった発言。もっとも勘違いの可能性もあるのだが。2019年にはドイツのVynyl-On-DemandからTwo Daughtersの音源集『Recordings 1979-1981』がリリースされた。

10.『In Fractured Silence』:1984年にリリースされたオムニバスで、アイデア自体は1982年の時点で生まれていたと思われる。リュック・フェラーリに音源提供を持ちかけるも、なぜか電話口で激怒されてお流れになったという不思議なエピソードがある。

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