Douglas Pearce (Death In June) Interview Feb 2020 Peek a Boo
ダグラス・ピアース(デス・イン・ジューン)

ベルギーのWEBマガジン『Peek a Boo』内のインタビュー。2018年に久々のニューアルバム『エッセンス!』を発表したデス・イン・ジューン(DIJ)。珍しくその音楽について話している。政治的な話題はあえて避けたのだろうか。例によって意訳。


あなたはアルバムを作るたびに前回とは異なるディレクション、正反対のそれを選んでいるように見えます。過去にあなたが仰ったように、DIJの作品は互いに似通うことがありません。新作『エッセンス!』についてですが、このアルバムを作る上で用いたメソッドと、それをいかに定義したかについて教えていただけますか?  

まず第一に、我が人生の中で極めて辛かった60代と追憶の30代前半の二つをいかにして反映させるか。そして音楽的または文化的な旅としてのDIJをどう要約するかを考えた。私、そしてDIJがどれだけ長い旅路を歩んできたかを振り返ろうと決めた。同時にそれは私が今までやってきたことでもあった。だから自動車のバックミラーを覗いてみるようなものだと思っていたのだけど、アルバムが出来てみれば、現在の私とDIJに何が起きているのか、何処へ向かっているのかを表したものになっていた。私にとっては内容が容易に予測できるものになってしまい、そこは残念に思っている。

アルバム用の曲はサウンドの方向性を考えてから作曲するのでしょうか。それとも曲を書いているうちにアルバム全体のイメージがじわじわと出来上がっていくものなのでしょうか。

大まかなアイデアやコンセプトは考えている。しかし、意図したものであろうとなかろうと、曲の持つダイナミクスや言葉がどう聞こえるか注意深く接することを学んだ。『エッセンス!』は曲そのものの聞こえ方や、録音に使用したスタジオにあった楽器が「今にそぐわぬ」ものだったので、当初考えていたものとは異なる結果になったと思っている。アルバムのつくり方を定義するのは難しいが、シンプルに自らへ宣言するということだ。聴く者は音楽からそれを探し出さねばならない。

アルバムの詩のほとんどは人間の精神の内側で起こることにフォーカスしている。あなたにとっては特定のストーリーやキャラクターを有するコンセプト・アルバムを作ることよりもクリエイティブなテーマですか。

架空の人物を描いたアルバムを作ることはできないと考えている。その人物は私の心の一端ではないし、惹きつけられるアイデアでもない。私自身はとても内省的で、それを分析するタイプなんだ。このシリアスな人生はずっと続いていくし、それは避けられない。私の運命でありウルズなのだから(注・ウルズは古英語のWryd。北欧神話の女神の一人にして、「宿命」「運命」を意味する語になった)。

『ピースフル・スノウ』以降、リスナーはDIJの方向性に戸惑っていました。ミロ・スナイデルによるピアノがDIJの曲に加わることで得られた体験はあなた自身にとっても興味深いものだったでしょう。音楽的な変化を遂げることについてどうお思いですか。

共同作業者とは関係なく、私は何年にも渡って変化してきた。それは自身に困惑や興奮を与えるものだ。しかし、ミロが『ヘル・ラウンジ・コープス・ヒムセルフ』でDIJを特別なステージに上げたのは確かだと思う。

それに伴い、DIJの作品はあなた自身すら意識させるようになりました。常に先を往く人間として、過去の作品と今のパーステペクティヴの差異について思うところはありますか?

過去に書いた曲を歌っていて思うことは、今の私にとって書かれた時と違う意味を持つようになったということだ。絶え間なくその意味が変わっているように感じる。過去を振り返っているようにも感じるけれど、実際は時代が変わっていると言うべきなんだろう。

2013年の『スノウ・バンカー・テープス』以来、あなたの芸術的なゴールや目的といったものは変わりましたか?

実際に変わったかはどうかはわからない。自発的に行なうことのほとんどは芸術的なものだと思っている。それは今も続いているプロセスであり、自然に発展していくものだとも。

長いキャリアの中であなたのスタイルが変わったことは少なくありません。有名なネオフォークにはじまり、よりインダストリアルなものからアトモスフィアを重視したものまで多様な形式に着地してきました。アルバムを作るときは、特定の型を保ちながら、その時抱いていたフィーリングをテープに記録するのでしょうか。

DIJはメンバー全員がパンク・シーンに身を置いていたが、音楽を含めて新たなものを生み出すよう努力していたために、ポストパンク・ムーヴメントの中から始まった。メンバーの出入りと共にコンセプトも変わっていき、85年に私個人のものになった時からは、自らの精神状態や周囲の環境または出来事を反映するようになった。それ以降の作品はほぼすべてが自己催眠、トランス状態に陥って作られている。ネオフォークはデザインして生み出したものではなく偶然の産物であり、インダストリアル・フォークと呼ばれる類の音楽も同様だ。私は多種多様なアプローチに対してオープンになり、色々なことを試した。

長い時間をかけてリスナーにそれを伝えてきましたが、ライヴはまだ原初のネオフォークのイメージに即したものに見えます。あなたのライヴを特別なものにしているものとは何なのでしょうか。それはスタジオ作業の段階で生まれているものなのか、それともリスナーと繋がることで生まれるそれなのですか。

90年代後半にはスタジオの音をステージ上で再現することに飽きてきた。DIJのパフォーマンスがリチュアルなものになるにつれ、これは聴衆とのギャザリングでしかないとも感じ始めた。もっとバックの音を剥ぎ取って生のパフォーマンスに集中することで、現場に「キャンプファイア・ミュージック」を発現させようと考えた。

DIJが40周年(注・原文では30周年とあるが誤記と思われる)を迎えたことについて話しましょう。この創造の期間をあなたは「闘争」と喩えました。まるでジャック・ケルアックの『路上』です。音楽を作ることはあなた自身との、本来とは異なるパーソナリティとの、現実との、コードとメロディーの構造などとの闘いですか。もしくはあなたにとって、より解放的な何かですか。

創造のプロセスというものは私にとって文字通り吐き気をもよおすような時間だ。それは歳を重ねるたびに酷くなっていく。それは疑いようもない苦悶であり闘争だ。しかし、その闘いとの勝利こそがDIJの40年とその成功であり、私を勇ましき男として解放してくれたものなのだ。

詩を書くときについてお尋ねします。それは常に続けていることなのか、それとも意識がその方向へ向いた時に行なわれるのですか。

どこにいても言葉や歌詞は浮かんでくるが、静かな郊外にある自宅では一際多くの言葉が降りてくる。曲に乗せるためにそれらをチューニングするのだが、その方法はウィリアム・バロウズやデヴィット・ボウイがやっていたカットアップをより長く、複雑にしたものなので時間がかかる。その作業はいつもは一人で行なうのだが、それを見ていたクロアチアの親友からトランスしているかのような顔つきだと心配されてしまった!

いつも何からインスピレーションを得ますか?

ふとした聞き間違いから混乱した感情に至るまで。我々は人生のあらゆる領域で押しつけをくらっていて、時にはそれに気付いてその存在を明確にしようと試みる者もいる。音楽や詩がその捌け口にならなかったら、私は一体どうなっていたことだろう?

70年代以降に生まれたスタイルのほぼすべてが、パンクから審美的な影響を受けているという説があります。あなたの最初のキャリア、クライシス(注・76年に結成されたパンク・バンド。80年解散)を振り返ると、あれは一つの反抗でしたか?もしくは今もそうですか。

パンクが文化的にいかに重要であったかは同意するが、最初にパンクに関わった人々は自らのやっていることを反抗だとは考えていなかったと思う。彼らは本能に基づいて、なりたかったものになった。その瞬間に意志と機会が合致したんだ。その一生に一度の機会を私は全力で掴みに行った。43年経った今日、それは正しかったと証明された。もしもパンクがなかったら、もしもあの時蹴破られたドアへ入らなかったら、私は音楽に関わっていなかったと思う。何がその代わりになっていたか考えるなんて詮無き事だ。

次のDIJのアルバムはどうなりますか。

ジレンマを抱えている!アルバム一枚を作れる分の詩は書けているし、タイトル案だってある。ジャケットからプロモ用の写真まで用意してある。しかし、音楽に関しては何も用意できていない。こんな悩みは初めてなんだ。何かしら思いついたらギターを手に取り音を鳴らしてみるものなんだが、『エッセンス!』が完成した2018年の8月からはギターやキーボードに触れていない。2019年は空っぽな音の年であり、2020年になった今でもそれは続いている。最近巨大な広場でシンセサイザーをいじって工場のようなノイズを鳴らす夢を見たんだが、刺激的でなかった上に、目覚めてみたら内容をほとんど覚えていなかった。新しいアルバムが出るかはわからないが、2021年のDIJ結成40周年に併せたリリースには意欲がある。


戻る