CULTURE TALK – BOYD RICE OF ‘NON’ AND COUNTLESS OTHER PROJECTS.
Boyd Rice interview (2018)

2018年9月にニューヨークのGreenspon Galleryで行なわれる予定だったダージャ・バジャジックとボイド・ライスの二人展。開催直前になって、ギャラリー側からライスの過去の素行を考慮した結果、展覧会を 中止するとの声明が出された。それは外部からボイドに対する多数の抗議が寄せられたことに起因していた。キャンセル後は『アート・ニュース』といった WEBメディアで記事にもなったが、間もなくしてボイドへのインタビューがWEBマガジン『Stereo Embers Magazine』に掲載された。そこでは事の顛末や(ボイドが言うところの)真実が語られていた・・・のだが、間もなくして記事は削除されてしまう。普段SNS上では一 方的な発信しかしないボイドだが、この事件は一瞬にして彼を色々な意味で神格化(それも何度目かの)した。
後に別のWEBマガジン『The Aither』に削 除された分が掲載されたので、今回はそこをソースとして翻訳している。ところどころ複雑な箇所もあり、意訳もいいところな部分もあるが、全体的に使われて いる英語の語彙は易しめで、なんとなくドナルド・トランプ的な話法(極力ややこしい語彙を用いない)と被るところもある。そう思う私は既に結論を出してい るのであろうか?とにかく盛りだくさんなインタビュー。


今回の件にまつわるインタビューはごくわずかですが、ご夫人は何か仰ってましたか。

何も。『アート・ニュース』のスタッフとは電話で5分ほど話した。オンラインで質問されても、プレスは求めている答えを選び抜くから私の回答が全 て掲載されることはない。私が本当に言いたいことを説明しない。

事実を書きたいという思いから怒っているのは私一人でしょうか?そんなやり方は不愉快ですね。

今回のような件が起こるだろうとはギャラリー側にハッキリ言っていたんだよ。「年間の予定は少なくしているから、怒りのメールや電話をもらって ショーがキャンセルになったりしてニューヨークに長く滞在するのはごめんだ」とね。キュレーターのエイミー・グリースポンに驚かせるつもりで言ったら、彼 女は「論争は大好きだし、それが起こるなら素晴らしい」と言っていた。

言わんこっちゃなかった(笑)

彼女は展覧会初日に来て一連の出来事を目にした。「とんだことになった」と思ったよ(笑)。
あの連中は彼女の良き友人だったにもかかわらず、「ここにいられなくしてやる」、「アートの世界から追放してやる」と脅迫してきたんだ。連中はギャラリーのオーナーにも「この展覧会を続けるようなら貴方とは二度と口を聞かないし、ギャラリーにも行きません。この業界の誰もがそうするだろう」と言った。

とんでもないですね。

彼女はとても怯えていた。説明をした上でこんなことをされたら私なら激怒するところだが、それ以前に彼女には悪いことをしたと思ってる。私の人生を考え れば、こんなことはコップの中の嵐だ。しかしアートの世界にとっては空襲の類だよ。スキャンダラスで、内容の確認もしないで締め出すだなんてね。
誰も展示されるペインティングがどんなものだったのか知らなかった。私が18歳のころから作っていたものなんだよ?当時は怒りを誘うような政治的イデオロ ギーなどは持っていなかったし、今だってそうだ。

はい、18歳の頃にイデオロギーを抱いていたとしても、それがあなたの全てではありません。

その通りだが、これらの案は18の時に思い付いたものだよ。よく練り上げてから描き始めたし、実験的なフォトグラフのアイデアにもなった。音楽もその時 から作り始めたんだ。私の人生経験にそれほどの深みはないが、何を作るにしろ自身を曝け出すことにしている。

ハイスクールからドロップアウトしたのはアーティストになりたかったからだ。アーティストたちの人生は興味深く、それこそが私の関心だった。なにせ他人 を困惑させるような振る舞いが報われていたんだからね。

あなたの著作やインタビューを読んでいると、その知性が別の次元にあると常々思わされます。18の時にこんなことを思い付くのも、何者の一つ上を ゆく所以だと思うのですが持ち上げすぎでしょうかね?(笑)

(笑)いや、君の言う通りだ!

著書に書いてある通りですね。

イデオロギーにおいて、という意味だ。私のInstagramを見れば、自作のTシャツにプリントされた「イデオロギー・イズ・トキシック」というフレーズが目に入るだろう。あら ゆるイデオロギーのプロモーションはしない。それどころか、イデオロギー的なコンセプトを排除している

一緒に展示をする予定だったダージャ・バジャジックは2016年に「ブカレスト・モリー」という作品で論争を呼びました。「ボイド・ライスの仲間 入りか?」とか言われたんだと思います。

ああ、彼女はアートの世界では有名だし作品も売れるからね。連中は私の叛逆的な評判を知っていただろうから、彼女がその同類になったと思ったんだろう。
エイミーには「私のペインティングは叛逆的でないし、挑発だとか物議を醸すものものではない」と話したよ。あれらは熟考した上で作られたものだ。本質的に は刺激的と感じたものをサウンドで描くことと同じで、それをヴィジュアルで表している。政治的なイメージを介さない、受け手のために開かれた作品だ。ハイ スクールの時に周りから叱られて以降、政治性には一切興味がない。アーティストとはそういうもの、よりミスティークなものだと思っていたからだ。アーティ ストをアーティストたらしめるのは毎度の馬鹿げた投票ではない。

その後、ダージャとあなたの展示は企画されたのでしょうか。

ここ数年間コンタクトをとっているキュレーターのクリス・ヴィアッジョが実現を試みている。最終的に彼はプレゼンテーションか何かでエイミーにお金が入 るようにした方が良いと判断したはずだ。

ダージャの作品はお好きですか。

もちろん。最初にこの論争が始まった時、問題視した人々は彼女の過去の作品を徹底的に調べ上げて疑わしいと思うものを取り上げた。「オイ、彼女はインス タとフェイスブックでライバッハと友達になってるぜ!」といった具合だ。私も過去の作品を見てみたが、ファシスト的なイメージや、その他の政治性を含むも のは見当たらなかった。

ブカレスト・モリー」はあなたのやっていることに近いでしょうか?

いや、それはまだ見たことはない。

スワスティカがプリントされたテディベアを抱く少女の写真です。少女のボトムズにはそれぞれ「ハイル」と「ヒトラー」と書かれていて、テディアの 腹部中心に空いている穴から黒い液体が流れるというものです。複数の意味を持つ作品の類でしょう。それが海外の展覧会で起こった事件の兆しでした。そ れがとっても不思議なんです。
人々はあなたをネオナチと呼びますが、彼女の作品はスワスティカや「ハイル・ヒトラー」を使っているにも関わらず、あなたのようにターゲッティングさ れていません。業界に愛されているからでしょうが、その一方であなたは長い間怒れる人々から狙われています。「これからもヤツを追い続ける」と。

ヒステリアの段階にあると思う。皮肉なのは闘争的なリベラル派がレイシズムについて話し続けることで人種的な区分を作ってしまうことだ。クリスチャンが 悪魔を、フェミニストがレイプについて語る時と同じ道を歩んでいる。彼らはそれに拘っているし、自らのアイデンティティを保つための「他人」と「反対意 見」が必要になる。この40年、私は模範的なブーギーマン(藁人形)とされてきた。

あなたは挙げた例すべてにあてはまりますね。

(笑)イエア。
何を言おうとしていたんだったか・・・私たちは奇妙な時代を生きているということだ。例えば、この数年に誰かがレイシストやナチと呼ばれているニュースを 見てみると、そうじゃないケースばかりだ。これは賛同できない人々を黙らせようとする試みであり、長い時間をかけて確立されてきた戦略だよ。この地球上で 最も悪しき風習は数十年にわたって機能し続けている。人々は職を失い、大学教授はレイシスト呼ばわりされ解雇される。この40年、私はそんな扱いを受け 続けてきた。誰かがこれを言い始めて随分と長い時間が経つ。誰もがレイシストと呼ばれるが実際はそう簡単なものではないし、ナチに成ることなどできないと私は考 えてきた。彼らがナチと考えるのは対象がナチのように見えるからで、それはナチそのものじゃない。
彼らは考えを現実にする術を持っていないから、違う誰かに決めてもらわないといけないんだ。ヒトラーは毎日テレビに出ているかもしれないな。

名前は思い出せないのですが、そんな風に批判され続けていた男がいました。周りからナチと呼ばれ、人々に駆け寄られては責められた男です。

ミロ・イアノポウロスではないか?彼には黒人のボーイフレンドがいたな。ナチ呼ばわりされていた?

違いますね。しかし、彼にも興味があります。

彼はバークレーの言論界から追放された男だ。デンヴァーに来るときも抗議を受けていた。バークレーは言論の自由が生まれた土地だが、今日では賛同できぬ意見を禁ずる世界の最前線になっている。

自由に話したいがために賛同できぬ意見を封じたがるリベラルの機械的な部分、これは穏やかではありませんね?賛同できないという理由だけでは、良 きこととは思えません。

その通りだ。ある円グラフを作ったんだがね、伝統的な作り方をした政治性を表すグラフというものは、直線が引かれているものなんだ。それは政治的なスペ クトラムがあり、その中心線が中立となったら左派と右派が生まれ、さらに極左と極右も生まれる。私はこのグラフを更新して、極右と極左は重なり合うように した。今日これらは分けられていた時よりも多くの共通点を持っているからだ。両者は同じ働きかけをする。共に不寛容で、自らの権利を奪われまいとして人々 の権利を先に奪う。

あなたは政治性を全く持っていませんが、トランプ政権についてはどうお考えですか?

今話したことを最前線で証明したことは好ましい。ヒステリックになることで人々は自らの本質を露わにした。もしトランプを黙らせるだけの力を得たとした ら、彼らはすぐさまそれを行使するだろう。

なぜなら彼らは代弁してくれる候補者を持っていないからだ。多くの人々は力も希望も失い、その満たされぬ人生とリアリティを変えられずにいる。でも凡愚 を叩くことなら出来る。私のような人物を批判したり、誰かの大学での講演をストップさせることなら選べる。彼らがやっているのはそういうことだよ。この 分断(注・原文はdivisiveness)を私は好ましく思っている。究極的には物事を良い方向へと進めるだろう。


ネルソン・ロックフェラーが大統領選に出ていた短い期間、私はたいそう興奮したし、アンディ・ウォーホルの見解も私と同じだった。ウォーホルは「ロックフェラーは良き大統領になる。彼はビジネスマンだから物事の良き進め方を知っているし、アート・コレクターだ。彼はアートの世界の一部であ り、アートの価値をわかってくれている」と言った。
ロックフェラーが副大統領の座に就いていた時、彼はマックス・エルンストがデザインしたベッドを5万ドルか12万ドルだったかで買ったんだよ。ベッドを買 うためのお金に飢えていたことを周囲は恐ろしがっていた。副大統領邸を引き払う時、彼の次に就く人物が引き取ることになったんだが誰も欲しがらなかった。

ほんとですか?

本当だとも。みな「どうかしてる」と口にしていたそうだ。そのベッドはチンチラ織りが飾られたものだった。
とにかく、私はトランプによるスペクタクルをエンジョイしている。米国はジェリー・スプリンガーの番組が現実になったようになり、民衆はそのオーディエン スのように振る舞う。エンターテインメントを観ている気分だよ。

特定の政党に署名や加入することはありませんか?今でも非政治的ですか?

まったくもって非政治的なんだが、君も知っているように私は独立した政治団体として登録されている。それゆえに投票や反対が必要な機会がたまにあるた め、ある程度は参加しているよ。
ジミー・カーター時代のオイルショックを私は経験している。ほとんどの人々が彼を地球史上最悪の大統領だと考えるだろう。彼がオフィスにいる間、人々の生 活はめちゃくちゃだった。ガソリンのために整列することを除いては、当時から今に至るまで私の人生は同じだよ。私は何処にだって行けるし、どんな政治的シ ステムの下でも生きていく。

展示の話に戻ります。誰か手助けしてくれた人はいましたか?

ああ、特に素性を調べたわけではないのだが、彼らにはいくつかの要望を伝えた。ダージャは展示を改めて開いたほうが良いと判断したので、私もやるならば 正当な場(ギャラリー)で行ないたいと思った。

作品に誇りを持っているから当然ですね。残念ながらあなたのイメージによってキャンセルになってしまいましたが。

私のペルソナ、私や私の作品を知らない人々によって誇張されたそれのせいでね。30年前に実犯罪を起こしていても時効だが!(笑)
20年前ですら、罪に問われる言動をとっていないよ。誰も攻撃したことはない。サンフランシスコの何人かは私の言に傷つくだろうが、それは今日、誰かを傷 つけずに会話することはできないという意味でだよ。
「小人」と言うと、「ダメダメダメ!今は『背の小さい人』と呼ばれているんです」とか。誰かが「口に出してはいけません」と決めたくらいじゃ、56年の頃 から使っている言葉を切り替えられんよ。

はい、あなたはポリティカル・コレクトネスに反していますね。もう何も喋ってはいけません。

そう、ポリティカル・コレクトネスだ。誰がその句を最初に使ったか知っているかね。

いいえ。

諸説あるが、私はスターリンだと考えている。レーニンかもしれないし、毛沢東と考えている人もいる。政治的に正しくない考えを抱いたら収容所へと送られ るのは実際にあったことだ。今日、彼らのもとでならば私も収容所へと送られるだろう。私の人生がスポイルされ、水を差されているのはその代わりというわ けだ。

(笑)トム・メッツガーの番組に出たり、ボブ・へイクと写真を撮ったことに関してはもう風化しているとお思いですか。

2週間前(展示がキャンセルされる)まではね!30年前のことだもの。30年前、何歳だった?

18歳です。初めて両親のもとから離れようと準備していました。

何かしらの法を破ったことはあるかね?未成年のうちから飲酒したり、ドラッグを使ったり。

うーん、18歳以前に何かしらしたことは、あります(笑)

30歳と18歳は違うが、私が言いたいのは30年前にやったことに対して誰かがジャッジするなんて予測できなかったということだ。やっていないことさえ も・・・。トム・メッツガーの番組に出たことだよ。番組を全て見ればわかるが、口汚いことを話してなんかいない。

実は番組を見ました。あなたが出ていたのは5分か10分だけですが、番組はあそこだけじゃないんですよね。人々はあなたを責めますが、人種差別的 な、物議を醸すようなことは言っていなかった。

彼らが見た部分は私をレイシストとするように編集されている。私が言ったのは、ヨーロッパの批評家たちがインダストリアル・ミュージックのことを白人が 生み出した最初のユニークな音楽と評したことについてだ。それが実際に言われたのは40年前だが。それはロックンロールに影響された何かとの繋がりを持っ ていない。私はサーフ・ミュージックやヘヴィーメタルも同様に、ブルースだとかの影響を受けていないホワイトな音楽だと思っている。

インダストリアル・ミュージックは当時画期的でしたが、あなたは既にその先を行っていました。

うんうん。面白いのは私がアートの世界に足を踏み入れたのはティーンエイジャーの頃で、その時インダストリアル・ミュージックのシーンにいた面々も殆ど がアートの分野で活動していたことだ。ジェネシス・P・オリッジらスロッビング・グリッスルに友人のゼヴ。ゼヴとはサンフランシスコにあるラ・マメール (フランス語で乳房の意)というギャラリーで出会った。我々は親友で、亡くなる日までその縁は続いた。

辛い話をしてすいません。彼は卓越した人でした。

まことに素晴らしい男で、私が知る中で最も過小評価されている人物だとも思う。彼は列車事故に遭ってからの3ヶ月半、ここにいたんだよ。主治医がこんな 状態でシカゴの冬を過ごしたら春までもたないと判断したからね。彼は車を持っていなかったから、シカゴではブリザードの中を歩く羽目になるところだった。 ここなら暖かく過ごせる。

その点はよかったですね。

ここを去る頃には回復していた。ここに来た時、彼は自身の影のようだったよ。老け込み、かろうじて階段を登れるくらいのものだった。彼はCOPD(煙な どが原因で肺が炎症を起こす症状)を患っていたが、離れる頃には100%回復したように見えたんだ。だから亡くなったと聞いた時にはショックだった。

離れてからどれくらい経って亡くなったのですか。

半年くらいかな?それくらいだったと思う。

当時、別の親友であるアダム・パーフリーも亡くなりました。まだ若かったので、さぞショックだったと思います。

私と同い年だよ!彼の父親も61歳で亡くなった。そして数年前のことだが、アダムは自分は父親と同じ年齢で死ぬだろうと言っていたんだ。

予言のようなものですか。

そうだ。アダムの死についてはビバリー・ヒルズで耳にした。『ディナスティー』(注・81年に米国で放映されていたソープオペラ)の作者であるエス ター・シャピロと楽しい時間を過ごしていた時だった。アダムの身内から電話をもらってね。彼が昏睡状態にあり、息を引き取るかもしれないから病院に来てく れとのことだった。昏睡状態から覚めたら、彼にお別れを言う最後のチャンスになるかもしれないと。すぐにLAを離れたが、着いた頃には遅かった。これ以上 は聞きたくないと思うが・・・

構いません。彼はあなたに大きな影響を与えた良き友人でした。あなたの口から聞かせていただきますか。

OK、彼は病室にいる人々が何か言っていることまでは理解できたんだが、私が駆け付けた頃には横たわるのみだった。彼が亡くなる日の朝、挨拶してみた ら、彼は頭を向けて目を開いてくれた。
その後、彼の身内がジョー・コールマンに電話をかけた。アダムと通話させたかったし、彼も少し反応を示したんだ。このまま回復してくれればと思った。
そうしているうちにアダムが苦しみ始めて、呼吸をするのもやっとになってしまった。彼の手を握って「愛してるよ、アダム」と言葉をかけた後に看護師がやっ てきたのだが、彼を一目見るや「お亡くなりになりました」と告げた。

なんということでしょう。

ジョー・コールマンは飛行機に乗っている途中でアダムの報せを知ったから到着がだいぶ遅れてしまった。彼はその日の夜をずっとアダムの死体と過ごした と思う。ジョーが撮影したアダムの写真はとても奇妙かつ美しいものだった。

彼のビザールなものの知識は驚くべきものでした。

最初に出会ったのはサンフランシスコで行なわれたアンダーグラウンド・フィルムの上映会だ。インダストリアルのシーンにいる人々はみなそれを観に来てい た。
アダムから、たしかグローヴ・プレスから出る予定だったと思うんだが、とある本を出すので何か寄稿して欲しいと尋ねられた。その本を一目見て「こんなもの を出した人が今までこの地球にいただろうか!」と思ったよ(笑)。数年後までわからなかったが、それは後の『アポカリプス・カルチャー』の企画書だった。彼は私の背景を、何を話しているかを理解できる限られた人物だった。彼は私と同類だった。

あなたたちは長きにわたって友人でした。かつてコラボレーションした人たちで今も交流があるのはどなたですか?

人付き合いを維持するのは苦手なんだが、ほぼ皆と仲は良いよ。ニューヨークに行った時はジェネシス・P・オリッジに会うことにしている。あの時代に生き た人々で、彼/女(注・今のジェネシスはs/heという表記をするのでそれに則した)と一緒に何かできる人はもはやいないだろう。コージー・ファニ・ トゥッティには「あの時代の人間で、今でもジェンと話せるのはあなたくらいだ」と言われたよ。

ジェンの健康状態は悪いが、サイキックTVがヨーロッパでショーを行なうのは良い兆しだ。

最近見た写真は、まるでブロンドヘアのカーツ大佐(映画『アポカリプス・ナウ』の登場人物)でした。げっそり痩せていました。

本当に?その写真は見たことないな。

FBかオフィシャルサイトかはわかりませんが、とても痩せているように見えました。しかし、2日前のPTVのショーの写真を見てしまうと、ライヴ をやるべきでないとは言えません。奇跡の類です。

良いことだ。ミュート・レコードの人々が言うには、医者たちは色々な方法を検討したうえで治療を始めるそうだ。望みがないというわけではないということ かな。いくつかの治療があるけど、どのリスクを負うかはジェン自身が決めねばならない。

なんであれ、治療のために尽くしてくれるでしょう。

ジェンのことはいつだって好きだから治ったら嬉しいね。彼/女がスロッビング・グリッスルを結成する前から私たちは文通していたんだよ。

どのように知り合ったのですか?クーム・トランスミッション経由でしょうか?

彼(当時)も私もメール・アートをやっていた。私の友人がメール・アート上で雑誌を作り、そのうちの一人が私のことが書かれた新聞記事(注・75年に当時のフォード大統領夫人に山羊の頭を送り付けた事件を指していると思われる)を雑誌に使ったん だ。それ以降、世界中から奇妙なポストカードサイズのコラージュが届くようになった。南アメリカ、ヨーロッパ、東ベルリンから作品を募集して、そのすべて は一冊の本になったんだよ!
私に興味を持ってくれたのはジェンとコージー、LAでワールド・イミテーションというグループに入っている人々くらいのものだった。彼らはモニターという バンドを組んでいた。
興味関心が近かったのもあって、ジェンとはすぐに連絡を取るようになったし、彼らがやっていたことも好きだった。初めてロンドンに行った時はTGの最初の シングルが出た頃で、彼らと会ったのもその時だ。まさにTGが大きな存在となっていく直前のことだ。

彼らの録音はあなたのものと似ていると思いますか?

それまでは『ブラック・アルバム』しか出していなかったんだが、米国に帰ったら完成させる予定だったテープをジェンに聴かせた。彼は注意深く且つ長々と それを聴いて、ある時点で「実にインダストリアルだ!」と言ってくれた。

(笑)素晴らしい!TGがあなたから得た影響はありましたか?

いや、彼らは常にバンド的で楽器を用いたノイズを出していた。私はピュアなサウンド、ピュアなノイズをわずかな道具をもって音楽的にしていた。そうでな かったとしてもね。

将来、アルバムを出す予定はありますか。

イエァ、そろそろ新しいアルバムが出るよ。『ブラスト・オブ・サイレンス』、私が今まで着手した中で最もミニマリスティックなものだよ。2枚組LPで、 それぞれの面に1曲ずつ20分のドローンが入っている。音楽を作り始めた頃に並行して作っていたヴィジュアル・アートに近いものだ。当時はとにかくミニマ ルなものを作りたいと思っていて、その一方ではパンク・ロックが生まれていた。私のキャリアがレールから外れたのはギャラリーではなくクラブでショーをす るようになってからだ。パフォーマンスで報酬が得られるようになったからね。ロックンロールのクラブでは60分間のドローンなんて演奏できなかったから、 ライヴ・パフォーマンス用に音楽を作るようになった。

当時から快く受け止められていないと思ってましたか?

ノイズ演奏を始めた頃はよく暴動を招いたものだ。パンク・ロックのバンドを見に来た連中はウォール・オブ・ノイズをくらうハメになった。私の顔面目掛け てビール瓶が投げ込られたし、会場にある家具はめちゃくちゃにされた。当時は(コンセプトとしての)ペルソナを持っていなくてね。物議を醸したと言えるの は、ロックンロール的環境の中でノイズのショーをやっただけに過ぎなかった。

マイ・ブラッディ・ヴァレンタインに似たものですか?

その名前は聞いたことがあるな。

彼らがライヴで「ユー・ メイド・ミー・リアライズ」という曲をやる時、メンバー全員が1音を出して強烈なホワイトノイズを出します。あなたのノイズのようにラウ ドなんですよ。聴衆もそれを期待していて、その時々で5分から30分ほど続くんです。

(笑)

とても素晴らしいんです。彼らのショーは3回見ていて、ノイズ部分はそれぞれ5分、10分、20分でした。期待する人々の存在によって、その対象 はより特別になっていきます。あなたの音楽で幻覚を見ているような気分になるのと同じでしょう。

次に出るものは特に幻覚的な内容だ。ずっと同じ音が続くからね。5分間それを聴いてからは、そこからリズム、わずかなメロディーといった、本来そこにな いものを探すようになる。脳がサウンドを処理するプロセスそのものだよ。何かに気付いたら、また別の何かに気付くだろう。それは私のペインティングとも同 じなんだ。12人の鑑賞者がいたとする。彼らは同じ柄からそれぞれ異なるものを見つけるだろう。人骨、ペニスやヴァギナ、人によって様々だ。鑑賞した者の 脳は他人のそれと違う処理を行なう。

それがアートの素晴らしいところの一つです。主観と私たちがそこから得るもの。それが優れたアートの証明になります。

(笑)素晴らしいアーティストは神秘的で、優れた作品は変幻自在、錬金術にもなり得るが残念なことに多くのアーティストがそうでない!

まったくです。年にわずかなことしか着手しないと仰いましたが、ニューアルバム以外に何かプランはありますか?

実際に移動するのが難しくなってね。今、糖尿病を患っているんだ。

タイプ1か2ですか?

2だ。6年前に発覚した。アダムも糖尿病を患っていて、彼はタイプ1だった。生涯治らなかったし、彼の父も同様だった。特に症状が現れているようには見 えなかったがね。アダムは病気が分かった後でも闘牛のように強気で行動的だったが、私にとってはショッキングな出来事だ。

不快なことを聞いてしまい、すいません。

いえいえ、こちらこそ!(笑)

お大事にしてください。ご夫人にもケアしてもらっているようですね。

そう、彼女には助けられている。とにかく今の時点では多くのことに時間を割けないんだ。『時計仕掛けのオレンジ』みたいな家と、そこでの生活も気に入っ ているから。

あなたたちはミッド・センチュリー(注・50年代の米国で生まれたデザインの一つ)愛好者ですね?

ああ、60年代後半から70年代前半のミッド・センチュリーだ。『バーバレラ』や『2001年宇宙の旅』に出てくるようなね。

私がお金をたくさん持っていたら、家全体を同じようにデコレーションしますね。本当ですよ!

(笑)

妻がそれに夢中なんです。私も大好きですが、彼女はそれ以上です。

もしデンヴァーを通りすぎる時は是非我が家へ来るべきだね。

お心遣い感謝します。本日はお時間をとっていただき、ありがとうございました。

こちらこそ。どうもありがとう。
この論争が起こった当初、「対話」なんて言葉は思い浮かばなかった。「話し合いましょう、あなたのご意見もどうぞ・・・」と言われても、そう呼べるものに はならなかった。今回は対話になった(笑)

あなたの味方になる機会を逃したくなかった。お力になれたでしょうか?

そう思っている。それと君はマンソンについて尋ねるつもりでなかったか。マンソン周りのスキンヘッズと私は関りがあったからね。彼は私に何人かのスキン ヘッズを雇ってサン・クエンティン州立刑務所から脱獄しようとしていた。彼は計画を練っていたが、ヘッズらは興味を持たなかった。
彼らはサンフランシスコにいた友人、アントン・ラヴェイがユダヤ人だったことから、私のことを疑っていたんだよ。その計画は進まずに終わった。
次いでマンソンは友人と私にフィッシャーマンズワーフ(注・サンフランシスコにある観光エリア)からヘリコプターをハイジャックして、刑務所上空から庭に 降りてくる案を思い付いた。

『ミッション・インポッシブル』みたいにですか。

(笑)そう!
この件で私は逮捕されてしまった。銃弾を持って刑務所に入り込んだのが理由だ。別の連中がヘリコプターでマンソンを助けに来るまでの間、私は彼のもとに手 製ピストル用の銃弾を毎週に渡って持ち込んでいたんだ。銃弾の密輸がバレて捕まったせいで、この救助作戦は未遂に終わった。実行していたらムショ行きか死 んでいたかのどちらかだった!(笑)

マジですか!

やったんだよ。多くの人々からこれについて尋ねられていたので、彼が亡くなった時は「続きを話しても良いかな」と思ったが、今は「特に言うことはありま せん」と返すね。マンソンからは「いいかライス、ガールフレンドにも、親友にも、ママにも言うなよ」と念を押された。だから、ちゃんと守っているんだ。妻 だって知らないよ(笑)

では、夫人もこれを興味深く読むでしょうね!

ああ、何人かの人たちにとっても同じだろう。しかし、影響力のある人物に関わると自分まで同じ目で見られることになる。私は残りの人生をマンソンの脱獄 協力者として過ごすつもりはないんだよ。

わかります。まだあなたの悪評は生きていると思いますか?

[両者、ヒステリックに笑う]

自分で自分のやったことを説明する時は、いつも悪く聞こえるように言ってしまうんだな。だけど、ボブ・ヘイクと写真を撮って『サッシー・マガジン』に載れたのは良い思い出だ。ティーンエイジの少女向け ファッション雑誌に載ったんだから。

「サッシー・マガジンに・・・ボイド?」と二度見するのは確実ですね。

(笑)

その発端はなんだったのですか。なぜ、あの写真が『サッシー・マガジン』に?

雑誌の編集部はスキンヘッズにインタビューするつもりだった。ボブから「10代女子たち向けのファッション誌に顔を載せてみないか?」と電話をもらった 時は乗り気で承諾したよ。正装して一緒にパブに行くだけでいい上にその晩の酒は彼らの奢りとのことで、何人くらい集まるかを尋ねたら「およそ50か60 人」と返ってきた。「南から、ベイエリアからも集まってきてる。もっと増えるだろう」とまで言うんだよ。
しかし、待ち合わせのユニオンスクエアに言ってみても誰一人現れなかった。ボブのグループのメンバーすら来なかった!やってきたのは私だけだ。ぬかるんだ 地面で小雨に濡れながらボブは「あー、連中は天気が悪かったから来なかったんだな」と、私は「君のファッキンなアーリアン戦士たちはどうした?最前線に来 るんじゃなかったのか。本当に天気が悪かったからやめてしまったのか」と話しつつ時間を過ごした。

結局来たのはボブと私だけだった。雑誌の人間は全方位から私たちを撮影したよ。私も知らなかったんだが、『サッシー』の購買層には20代半ばから30代 の成人女性も多かったんだ。彼女らは私に「こんな馬鹿げた行動を続けていると、あなたの人生が変わってしまいますよ」と告げてきた。しかし、君も知るよう に私の人生は変わらなかった。むしろ、その逆といえばいいかな。私は私の法の中に生きている。引き払う気はないし、頭を下げるつもりもない。
ナチにまつわるものでも同じだ。アレイスター・クロウリーは「地球上で最悪な男」と呼ばれることをアイデアとして取り入れた。それは彼自らが称したわけで はなく、他人によって作られたものだ。彼にとっては、洗練されていない人々、本質を見抜けない者たちを取り除くことに役立ったんだよ。それは優れたリトマ ス試験紙で、私にとっても同じことが言える。

分かる人は分かるし、そうでない人もいる。何が不都合なのでしょうか。

私はいつもそう答える。私のファン、オーディエンスはちゃんとわかってくれているんだろう。フェイスブックでは17000人から18000人のファンが 私のページを見ているので、誰かが私を攻撃すれば私とファンとの結びつきはより強くなる。
世界中から理解を得られるだなんて思っていないよ。最初にアートを始めた時もそうだったんだから。

私はその一人です。この音楽ジャーナリズム業を始めたのは数ヶ月前からで、その目的はお金ではありません。いくつかのバンドやアーティストは今も 素晴らしいクリエイションを見せていますが、多くのプレスはそれを曲解してしまう。だから、この展示を巡る論争が終わった後、ご夫人にコンタクトを とって、なぜ誰もこれに言及しないのか尋ねたのです。彼女が言うには、いくつかの美術誌に書かれてることには間違いがあるとのことで、私も読んでみた んですが、誰一人あなたのことに触れていなかった!
なので私は「ニュー・ロック・ジャーナリスト」としてこの問題に取り組んでみたんです。このインタビューは発表されるか、「ボイド・ライス・・・とん でもないヤツだ!」と言われるか。二つに一つでしょう。

作品の説明をする機会になるなら喜ばしいことだ。そして、それは脅える人たち全員に説いて回るのは不可能だということも意味する。そんなことをしたら、 この40年の人生は謝罪するだけのものになっていたよ。
私の作品に対して一つ言うならば、いろいろな分野をカバーしているということだ・・・この機会をくれて礼を言うよ。
「けしからん、あんたの考えを聞き出してやる」と幾度となく言われてきたが、未だにそれが実現した試しはない。良い結果を生むと思うのだが。

(了)


ここ最近(2010年代)は表に顔を出さなかったボイドだが、それだけに今回の騒ぎは大きなトピックとなった。賢明と言うのもアレだが、FBなど のSNSでオルタナ右翼御用達のニュースサイトをシェアしまくる者たちと違い、ボイドは基本的に「受け」の姿勢を貫いている。責められることで、被害者と して告発し返せるというわけである。
トランプ政権への印象は、(彼を好もうが好むまいが)過去から彼を知っている人々にとっては確認したかったことではないだろうか。名前が出ているミロや、 セバスチャン・ゴルカといったニュースサイト『ブライト・バート』発の論客、そしてモリッシー(!!)への同調は当然のものと思われてきたが、もとよりイ ンターネット上のコミュニティで情報交換することに関しては消極的だったため、それほど取り沙汰されなかったと思える・・・この件が起こるまでは。
「論争を呼ぶ」とか「ハプニング」といったタームが通用するのはせいぜい20世紀までと思っているが、そ れは美術や言論、市場の世界で行なうゲームにおいての話で、彼はその関係性の力学を現実のあらゆる分野に適応させていると同時に、それが機能していること を立証している数少ない人物であるとは思う。尊敬するアンディ・ウォーホルがもし長生きして、現代の政治の分野に言及していたら、あるいは彼と重なる瞬間 が出てきたかもしれない。クロウリーを例に思想のリトマス試験紙を持っていると彼は言ったが、私にとってはボイドもそうである。どころか、私にとっての アーティストの定義はそうであることなのかもしれない、と浅はかながらも考え込んでしまった。
異なるトピックとトピックの関係性は彼を語る上では欠かせない。例えば音楽一つとってもミュート・レコー ドとの長年の縁を考えるだけでも興味深い(このレーベルは「新世界秩序」から名をとったニュー・オーダーやライバッハを抱えていながら、ポップ・ミュー ジックに強い影響力を持つレーベルとして君臨している)。関係性にこそ「価値」が生じるという考えは正にウォーホルやマルセル・デュシャンが狙いを見据え た領域であった。

例によって修正は後日こっそり行ないます。


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