SPRINGTIME FOR BOYD RICE?
【超意訳】Boyd Rice interview (2015)

2015年、トランプ大統領が誕生する前のインタビュー。


あなたはさまざまなメディアを使って表現していますが、キャリアの始まりは音楽でしたね。2015年の今でも興味深い音楽は作られ続けています。音楽のどんなところが あなたを惹きつけるのですか?   

アートの中で最も抽象的なフォームであるところ。それは何もないところから何かを作り出すことができる。存在していないのに録音することでたちまち存在する。音楽は実体を持たず、眺めながら歩き回れるようなものではない。だが、耳にすることでそれが自分の一部になる。たとえ自分の中でしか 起こらなかったとしても、私たちはその時間を記憶できる。しかし、私は最初から音楽家になるつもりはなく、アートをやろうと思っていたんだよ。ハイスクールを中退した時、大人になりたいと思うと同時に現代美術家になりたいとも思っていた。当時そう呼ばれる人々は、普通なら罰せられるようなこ とをしても称えられる唯一の存在に見えた。彼らは多くの女性とセックスしたり、過去に誰もやらなかったことを期待されていた。それが魅力的だった(笑)。  

美術の世界から得たものを自分の音楽に落とし込んだという自覚はありますか?

多少は。20世紀初頭のアートが好きだったからね。それらは偶然、ランダム性に重きを置くものが多かった。デュシャンやマックス・エルンストからは大き なインスピレーションを受けた。エルンストのメソッドは何もないところから何かを生み出すもので、そこには錬金術の要素があった。しかし、影響を受けてい るとはいえ、私が意識的に彼らを模倣しているというわけではないよ。ブライアン・イーノのファースト・アルバム(註・正確には2nd『テイキング・タイガー・マウンテン(アンド・ストラテジーズ)』)を聴いてみると、まるで彼は美術学校を卒業 したばかりで、そこで学んできたことをあえて音楽で表現したかのように聞こえる。あのアルバムには、タイプライターをパーカッションとして使ったサティ的な 曲があり、そこで彼はそのアイデアそのものについて歌っている。あのアルバムは好きだけど、もっとアイデアについて曖昧であってほしいと思う。私が音楽で やりたかったことは、それを耳にしても何が起こっているのかわからないようなものだった。

20世紀初頭のアートは今でも過激に感じます。非具象的であったり、超現実的(シュルレアリスム的)なイメージを並列した最初の例で、それまでの 西洋史を通じて占めていたリアリズム的思考に反するものでした。このリアリズムへの造反をあなたは身近にあるものから得たのでしょうか?

リアリズムから脱却することは想像に訴えかけるものだ。そこでは普通では通らなかった思考が生まれる。アートは写真のようであるより、想像させて 然るべきだと考えている。   

優れたアート、音楽がメインストリームとして社会に吸収されていくことは良いことと思いますか?想像力に訴える過激なアートが私たちのカルチャー に入ってくること自体についてです。

良いこととは限らない。この種のアートは数少ない人々に受け入れられ、数多くの人々によって葬られていく。何年か前にニューヨークでモノクロームのペインティングを展示す るショーを開いた時、アートの世界で高名な人々を紹介されたが、大多数が過去から変わっていなかった。この手のカルチャーは今日ほぼ無視されている。未だ にアンディ・ウォーホルがやったことの再生産や、キュビズム作品、それも1920年代の作家たちの方が優れているようなものを作り続けている。

今日の美術マーケットはどう思われますか?現代美術の作品は裕福な者たちに莫大な金額で売られており、彼らがいかに裕福で「趣味が良いか」を示す だけの装飾品になっています。

だろうね。しかし、そんなマーケットも今では批判され続けている。『トゥルー・カラーズ』という本が25年前に出た。当時のアートの世界で将来大物にな るとされていた人たちを取り上げた本だ。彼らの作品はすさまじい額で売られたが、そのほとんどは今日価値を失っている。ギャラリーのシステムは今でも続け られているが、それがこの先維持できるとは考えられないな。昔ほど美術品を集める人はそう多くない。アートの世界でわかることは、人々が何十年も同じこと を続けてきたということだけだ。何が面白いのか私にはわからないが。オーストラリアである男が大きなギャラリーで開いた展示には、人々の肛門を接写した写 真が飾られていただけだ。なんとなくだけど、ここにはくだらないコネがあるんだと臭わせたね。私の友人はフェイスブック上でこれをアートの世界の現状だと 喩えた。肛門とそこからひり出されるクソによる世界だ。


この状況は何年も続いている。アートの世界では、本質的につまらないものであろうが、無意識に受け入れられている。想像力に訴えかけず、刺激に乏しいもの であってもだ。言えるのは、そこにいるアーティストたちはただ金持ちになりたいということだけだ。そんな連中はたくさんいるよ。興味をそそられる作品 に出会ったときはショックを受けるが、たいていはただのゴミだ。過去に展示を行なった時、ある男性は私の絵について、絵に惹きつけられたの初めてだと言っ た。それが何を表しているのか言い表すことはできないし、人によってはそれを写真だと認識することもある。彼が言うには、このギャラリーに来る人々のほと んどは場内を歩き回って、少し絵を眺めては足早に立ち去るものだそうだ。私の展示に関しては、人々は絵の前に立ち止まり、それが何であるかを長い時間考え ている。これはとても珍しいことだとも言われた。私が他の男性に絵を見せたとき、それが彼にとって絵に惹きつけられた最初の体験だったと言われたこともあ る。飾られていた絵の多くはキャンヴァスに奇妙な色遣いをもって描かれたものだ。人を惹きつけようとも、何かを考えさせようともしていない。「なんですか これは?ファンタスティックですね!」と言わせるようなものではない。たいていのアーティストの作品を目にした時、人々は「なんでこんなことをしたの?」 と考える。私はほとんどが「アーティストになるため」だと思っている。

20年代の時のような精神に立ち返ることができると思いますか?当時の視覚芸術は過激で、実に魅力的です。今日でも当時のような作品があると考え られますか?

疑わしいね。私がこれまでしてきたことのいくつかにはその精神が表れていると思う。誰も見たことがないような、誰もやったことのないようなものを生み出したいと意識していた。しかし、美術大学に行ってみると、20世紀のアート史を学ぶことになる。その教育を経ることで人々は「デュシャンみたいなことがした い」とか考えるようになってしまう。

これは音楽についても同様だ。私のもとには何週間か一度のペースでネオフォークのアルバムが送られてくる。デス・イン・ジューンをたくさん聴いて作りまし た、と言わんばかりのものがね。コードから楽器まで同じものだ。程度の差はあれ、そこに創造性はない。何故なら彼らがネオフォークというアートフォームを生み出したわけではないからだ。ダグラス・ピアースはそれを生み出したから偉大なんだよ。何千もの人々がそれをなぞろうとしていて、いくつかは「とても良い」。同時に「デス・イン・ジューンが好きで、それをなぞっているんだな」とも思わせる。しかし、時折今までに聴いたことのないものが届くこともある。 連絡先が書いてあれば、そこへコンタクトしてみるんだ。一つはフロリダで両親と一緒に住んでいる少年から送られてきたもので、内容にいたく感動したから彼に電話をかけたよ。ノイズ・ミュージックも80年代の初期から送られ続けているんだ。82年に手に入れたようなものが今でも届く。そのフォーマットを使い つつ、根本的には異なる革新的なものを耳にした時はショックを受けるね。ノイズミュージックは想像と革新に欠けていても簡単に複製できてしまうジャンルだから尚更だ。

今日、作曲をする必要はない。ある友人はノイズ・ミュージックを作るアプリをスマートフォン上に持っていて、そこでは幾つかのボタンを押すだけで私のもと に送られてくるようなノイズ・ミュージックが出来上がるんだ。私がノイズを作り始めていたころ、ノイズ・ミュージックというジャンルは存在していなかっ た。「こんな音楽が作りたいけど、一体何をすれば作れるのだろう?」というところから考えねばならなかった。レコード店に行ってサンプルになるようなもの を注文すればいいというわけではなかった。シンセサイザーは既に存在していたけど、とても高価だったし、何よりシンセサイザーで作った音は大半が似通って しまう。デュッセルドルフに住んでいた友人たちは、自分たちが旅行に行っている間に使ってよいとシンセサイザーを貸してくれた。これが私にとっての初シン セ体験だった。その結果は何を作っても同じような音になってしまったがね。私が目指すものは聞く者にざわめきを与えるものだった。耳にした時に「なんだこ の音は?」と思わせるようなね。ギターでギターのような、ドラムでドラムのような、シンセでシンセのような音を録ってしまったら、もう興味が持てないん だ。最初期のシンセサイザーで音を出すには、大量のツマミをいじる必要があった。同じ音を見つけ出すことは本当に難しいことだった。当時のプログラミング に秀でた人々は彼らの望む音が得られたが、そこにもし猫が鍵盤の上を走ろうものなら、その時生まれた音に再会することは一生を費やしたとしても不可能に近い。

モートン・サボトニクやウェンディ・カルロスといったパイオニアたちも口にしていたことですね。ユーザーフレンドリーなアプリとソーシャル・メ ディア的ファイル共有についてですが、これらによって過去のパイオニアたちのような創造性が失われると思いますか?

もちろん。耳にした音をボタンを押すだけで再現できて、どうして創造的になれるだろうか。なんにせよ、多くの人間は創造的でない。私が美術と音楽の世界 に入っていったのも、こうした考えが強かったからだ。自分の創造性を探求し、その限界を拡張したかった。ノイズ・ミュージックやアブストラクトなそれを 作っている人たちですら、多くはそう考えていないんじゃないかと思うよ。ある音楽を耳にして「こんなものを作ってみたい」と思っているんだろう。自らに対 して「誰も作ったことのないものを生み出してみたい」とは言わない。

従来の教育がどんな役割を果たしているか考えることは興味深いですね。美術や音楽、歴史などを学ぶコースはたくさんあるし、新しいテクノロジー だって同様です。しかし、そこで学んだことを独創的かつ刺激的なものを表現するために使うことの大切さを教える場はないように思えます。教育された知 識をそこから外れていく方向に使われることは良いこととみなされていない。常にある種の伝統を保ち続けていくことを求められます。

その通り。しかし、どんな時代でも従来の教育の中に独創性があったことはないと思う。数年前、ニュースで「祝・ブルース生誕200周年」と言っていたの を見て笑ってしまったよ。ブルースの200年?それは音楽のジャンルであって、そこで革新的な出来事は大して起こっていない。ほとんどの曲は同じコードと リフからなるものだ。私がHBOの番組を見ていた時、番組の最後にはいつもブルースの曲が流れていた。「オーセンティックな音楽」を祝うためのものだった からだ。しかし、どの曲も全部同じに聞こえる。歌詞からメロディーに至るまで同じだ。「ストリキニーネを試してみたい、効くのが遅いと聞くけれど、ママ、 ストリキニーネのことを考えてんだ」といった具合にね。何度同じものを耳にし続ければ良いのだろう?

HBOの番組ではブルースの定義が限られていますね。誰かがあなたの『ゴッド・アンド・ビースト』(1997)を現代版ブルースだと言うかもしれ ません。おかしく聞こえるかもしれませんが、自らの音楽からブルースの伝統が現在どこにあるかを導き出すのは、そんなに大げさなことではないでしょ う。不思議かもしれませんが、ある特定の時期のブルースにのみ詳しいブルース好きとは少ないものですから。

ブルースの中に過激かつ新しいフォームがあるなら、まだそれには出会っていないということになるな。私が聞いたほとんどは、過去200年間に歌われてき たブルースだ。そうした音楽の伝統で満たされる人々のためのものに見える。私がよく行く酒店で耳にする音楽のようなものだ。経営者の男性はいつもメキシコ のラジオ局でマリアッチを聞いている。私が子供のころにメキシコ料理店で耳にしていたような曲をずっと聞いているんだ。マリアッチには歌手が「アーハハ ハ」と七面鳥のような声を上げる瞬間が必ずある。いったい何回、何十年、まったく同じ曲を耳にすることができるだろうか?すべて似たような曲で、全部が互 いの代替になるような音楽だ。ロック・ミュージックにも同じような不満はある。だが、ロックはブルースやマリアッチよりもはるかに多様性に富んだものだと 思う。

ノイズ・ミュージックのほとんどは同じようなものだという意見も大半は正しいだろう。しかし、『ゴッド・アンド・ビースト』と私の最新のアルバム(『バッ ク・トゥ・モノ』)は大きく異なるものだから、私の音楽は今言ったような例に当てはまらないと思う。新しい作品はその前の作品に似ないものだからだ。 ファースト・アルバムと比べても同様だよ。前に作ったものと違うものにするよう、常に意識している。『ゴッド・アンド・ビースト』をリリースした時、みん な同じような作風を続けることを求めた。「このアルバムが大好きです、こんな感じでもう一枚!」といった感じでね。言われるがまま同じようなアルバムを作 ることもできたが、新たにレコードを作るなら現在から離れなければならないと考えていた。

期待に背くことがあなたにとってのモチベーションであるように聞こえます。私が興味深いと思うのは、あなたが60年代に育ったということです。期 待に背くということがトレンドになったのはあの時代が始まりでした。今日、60年代をどうお考えですか。当時のカルチャーからは大きな影響を受けたと 認めるか、あるいはより批判的に振り返りますか?

60年代を振り返ることは難しい。私にとって最高であり最低の時代であったからだ。ユダヤ教によって築かれた基礎的な概念において、我々は60年代からの凋落と共に生きて いる。その概念とは「愛」、「平等」、「世界平和」といった、くだらないそれらだよ。ある時点まで、それらはキリスト教の福音だった。クールな人々は60年代にその組織化された宗教へ背を向けた。しかし、愛や世界平和といったものは宗教的な考えではなく、今でも我々と共にあるものだ。今日でもビートルズは レコードとして生きていて、その考えをプロモートしている。彼らはもっと自らの教訓から学ぶべきだった。とある銃の宣伝番組を見ていたら「あなたが世界平 和を願っているあいだ、私はあなたを追い続ける」と書かれたTシャツを目にした。人々はまだバカげた世界平和なんてものを待っている。それはいつになるのだろう。先 日レストランでジョン・レノンの「イマジン」が流れていた。彼は平和について歌う。「いつかきみたちが僕たちと繋がり、世界が一つになることを願うよ」 と。そして私は考える。「本当に?」40年経っても人々はあんな酷いレコードを買っている。

愛、平等、世界平和に懐疑的というのは文字通りの意味で反対ということですか?あってはならないと思いますか?

いや、存在できるわけがないという意味でだ。それが過去に実現したことはない。私は著書『NO』で、世界中のどこであろうと平和が成された唯一の時は、 それを強制する君主がいる時のみだと書いた。人々が教義を守るということはそれを定める君主のことを恐れているということだ。

興味深いですね。もし世界平和が実現したとしても、それはその場にいる人々全員が誰かに抑圧されていることの言い換えでしかない。その場合、平和 という言葉は抑圧と闘うことを放棄させるポリティカル・コレクトネスのように聞こえる。

オスヴァルト・シュペングラーが言っていたことに近い。たとえ世界平和の条件が良識ある人々の大多数による同意だとしても、それは存在しえない。その梯 子の一段下を見てみれば、そこには不公平を感じている人々がいる。下にいる人々は上にいる人々が持つものを力ずくで奪うだろう。世界の90パーセントの 人々が世界平和を望んでいたとしても、残りの10パーセントは「私たちだってそれを得て当然だ、譲らないのならば取り上げます」と言うだろう。だから世界 平和はこれからも実現しないと思う。それを願う人が多ければ多いほど、その存在は遠ざかっていく。

アメリカに住む人々みんなが平和を望んでいる。故郷の少年たちが異国の地の戦争に加わったり、そこで死んでほしくないと願っている。だが平和志向と呼ばれ た大統領でさえ戦争を続け、血を流し続けている。この事実は「世界平和を望みます」と叫び続ける国から生まれている。

優先順位を見直した方が良いのかもしれません。世界平和をゴールと定める代わりに、それよりも実現させやすく且つ私たちが求めていることを果たし てくれるようなものが他にあるのかもしれない。より実現しやすいものがあると考えたことはありますか?

ゴールを作る必要はない。求められるべきはプラグマティズム、世界の現状を認識することだ。「これが私たちが置かれている現状であり、その中でベストを 尽くしましょう」と言うべきだ。アメリカは世界のあらゆる紛争の火種を消せるポジションにいながら、私たち(アメリカ人)がそれを実行することはない。 WW2の後、米軍はヒトラーを打ち負かしたら次はロシアへ侵攻するつもりだった。ロシアを米国の一部にできたところを、政府が介入して「そんなことはしま せん」と宣言した。中東の問題だって私たちは解消できる。天然資源も代替エネルギーも自分たちで用意することができた。それならば中東の石油に依存しなく てもよかった。しかし政府のトップたちは依存する状況を作り続けている。それがなければ中東の人々は力を持つことはない。私たちは石油に頼らないこともで きるが、それは中東の人々の生活がめちゃくちゃになってしまうことを意味する。それが現状だ。


アメリカは世界の中でも大きな発言力を持っている。しかし、米国には敵が、最終的に戦争の相手となるそれが必要だから政府のトップたちは何も言わない。い つだって敵がいてくれないと困るということだ。人々がイスラム教に飽きたら、また新たな敵が生まれることだろう。

興味深い考えです。あなたは世界平和だけでなく、愛や平等にも懐疑的だと仰いましたね。60年代が平等の概念を広げるうえで間違いを犯したのはど の部分だと思いますか。

平等は人生で実証できる側面には含まれないと考えている。犬を2匹並べようが人間を二人並べようが、そこに平等はない。民主主義のジェスチャー、大衆を 満足させるためだけの建前だ。人はみな平等で誰もがアメリカ大統領になれると言っても、それは明らかに事実ではない。

人類みな平等と愚直に思い込んでいる限り、人々は常に失望しながら生きていくことになる。思うに、人々は心の奥底では自分と億万長者なCEOは同等ではな いことを理解している。社会的・経済的に平等な条件を用意されても彼らに対抗することはできない。それと大半の人は自分の下に能力がない、それを発揮でき ない人がいることを自覚していると思う。上に立つ人は下に立つ人よりも優れているし、それゆえに下の人は憤る。「人の価値は良し悪しじゃない」と言うのは 簡単だが、賢い人とそうでない人がいるのは明らかだ。そんなことになれば怒りの矛先は自動的に賢い人々(現実を把握している人々)に向けられるだろう。す ると彼らは自分より上にいる人々のことを恨むだろう。みな鳥かごに閉じ込められているようなものだよ。下にいる人々は真ん中にいる人々を見上げなら憎み、 真ん中と上にいる人々は下を見下す。

すべての人間が平等となる術はあるでしょうか?

死ぬことと税金くらいだ(笑)。みんな食っていかねばならないし、トイレにだって行かねばならない。しかし、何度も話したように、50ポンドの金と鉛は 平等ではない。だったとしたら、平等とは一体どんな意味だろう?具体的な例のない、極めて抽象的な概念という意味でだ。

公平に扱おうという考えは、我々が少なくともいくつかの点で人々は平等だと思い込んでいるからくるものでしょうか?同じ能力ではなく、同じ機会と権 利を持つことが必要とされているのかもしれない。

私は権利というものを信じていない。権利とは取り上げるものと作るものがあると思う。人々が生まれながらに等しい権利を持っているという考えは、民主主 義国家は特定のスローガンに導かれることが効率的だとする、誤った抽象的概念の一つでしかない。実際に人々が権利を持っていると言える時は、政府や一部の 権力者が彼らからそれを取り上げていない時だけだ。これら権力は、下々の人々が権利に基づいて行動することを妨げる(法的な)抜け道を考えることに長けて いる。権利と人々を公平に扱うことは関係ないと私は考えている。私は他者へは公平に接するが、時に無礼な者も現れる。彼らの行動が意味するのは、自分たち を愚者として扱ってくれということだ。私は誰にでも公平に接するが、相手がその態度に値しないとわかってからは別だ。私は彼らにありのままで接する。彼ら はそれを望んでいるのだから。

本当にそうならば、ある意味ではあなたは誰にも平等ですね。

(笑)そうだね。平等というものは賃金やサービスと同じでスライディング・スケールなのかもしれない。

あなたが95年に書いた歌詞「Love Will Change the World」について話しましょう。あの歌詞の強度は今日でも失われていません。強い共感を与えるとともに、こんな質問をしてみたいと思わせてくれます。愛が個人の能力に 対してマイナスに働かないことはありえるのでしょうか?あなたは愛を持ちながら、それを持たなかった時と同じように物事を洞察できますか?

もちろんだとも。しかし、それには多くの前提が必要だ。今、私が愛を持っているかと言われれば、そうだと答えよう。56歳で結婚してから4年間妻と一緒 に過ごしている。お互いに愛し合っているし、それは私にとって良いことだ。だからって愛がすべての回答になるかと言われたらノーだ。愛は人を助ける貴重な ものだが、その範囲を広げすぎると薄くなってしまう。これは憎しみについても同じことだ。憎しみを理解することは良いことだが、すべての人間を憎むことな どできない。愛においても、他者すべてを愛することはできない。誰もが愛するに値する人間とは限らないからだ。世の中には、こち らを傷つけたいと思っている人もいるのだから。「愛の敵」というスローガンがあろうとも、そんな連中を愛して得られるものなどない。

愛することのできない人を愛することで、彼らが良い方向を向くと思いますか?言い換えるなら、長く愛を与えることで彼らは変わることができるのでしょ うか。

そうは思わない。それは愛する側が寛容であるというだけだ。寛大になってもよいと思える人には寛大になるべきだ。相手を間違えてしまったら、彼らはこち らの態度を当然のものと考えるし、そこにつけこんでくるだろう。こちらの善的な衝動は利用され、最終的には傷つくことになる。

たとえば、赤ちゃんにはその考え方をどうあてはめますか?彼らは大人のように誰かを愛することは難しいけど、相応の態度をとりますか?

それは全く別のケースだよ。赤子や幼児を愛し守ることは生物の進化的適応の一部だ。みな、そうやって生き延びてきた。赤子や幼児が持つ資格とは何の関係 もないことだ。個人的に他人の赤ちゃんをかわいいと思う瞬間はある。でもうんこをした時は親に手渡す。お世話をすべきは彼らで、私はそれをしなくてよい。 可愛いものじゃないか。とはいえ、赤子をかわいいと思う時は少ない。大体はそんなものだと思うが、これ以上はあまり言わない方が良いだろう(笑)。

他人の赤ちゃんはかわいい。しかし、赤ちゃんが持つ不可抗力的な魅力というものは複数の例を除くと理解できない。赤ちゃんを持つ人々はみな彼ら彼女らを愛 している。しかし、赤ちゃんを持つことに才能やライセンスは必要ない。テストを受けることさえいらない。誰でも赤ちゃんを授かることができて、誰もが自分 の赤ちゃんこそが一番かわいいと思っている。それを実感するのは、見た目が醜い赤ちゃんを授かっても、両親はその子を世界で一番かわいいと思うところを見 た時だ。

赤ちゃんと言えば、60年代もベビーブームと呼ばれた時代でした。60年代発のファッショナブルなものについて批判的ですが、今日そこから学べる ものはありますか?

デザインは良かったと思うよ(笑)。建築もそうだし、車は特に良かった。テレビ番組もあの頃の方が良かった。60年代で一番気に入っているのは、その進 歩のためのアイデアだ。人類が宇宙へ向かっていたように、時代は未来へと進んでいた。今でも残っているモダンな建物は、先進的であることが建築上で重要だ と考えられていた頃に作られたものだ。60年代はそんな時代だった。人々は作るものすべてに先進性が反映されると思っていた。子供の頃に入ったコインラン ドリーはとても未来的に見えたものだ。繊維ガラスで作られていて、まるでハンナ・バーベラの『ジェットソン』家のようなヴィジュアルだった。車の展示会に 行けば、毎年全く異なるデザインの車がお目にかかれただろう。今よりもずっとモダンで未来的に見えた。

そこにデザインという観点はなかった。他の車と差別化しようという試みもなかった。今まで生きてきた限り、こうしたプロセスがあったのは60年代だけだっ た。『ハイウェイ・パトロール』のような50年代のテレビ番組を見ると、劇中にロサンゼルスの道路が出てきて、そこを走る車はみな違いがハッキリとわか る。「あれはダッジ、あれはシボレー、これはビュイックだ」という風にね。現代で撮り直しても、ああはならないだろう。多くのポピュラーなカルチャーにも 同じことが起きていると思うし、それは残念なことだ。

60年代に抱かれていた未来への希望が、そのまま私たちがあの時代から連想する創造性などに結びついていると思います。その希望が失われると同時 に創造性や独創性もなくなってしまった。あの希望や興奮を取り戻せると思いますか?

それはわからない。だが希望なんていう言葉に意味はない。そこら中で聞こえてくるものだ。我々は今の大統領(バラク・オバマ)に対して希望的観測を続け てきた。彼は人々に希望を与えたが、それは何の結果ももたらさなかった。

確かにそうです。

ある意味、我々は60年代に夢想された未来を手にしている。しかし、まだまだ世界はそうは見えない。携帯電話は当たり前のものになり、今ここで写真を撮 ることだってできる。ディック・トレイシーのようにね。

スタートレック!

YEAH,電話回線を介さずに通話できるのは未来的と言える。今日、そのような例はたくさんあるけども、世界はそれを未来的とは解釈していない。未来へ の関心は失われている。それ自体が何十年の前に失われてしまったようだ。我々は今手元にあるものだけに固執しているとも言える。

60年代精神、とりわけフランク・ザッパのそれとあなたの取り組みで共通しているのは、メインストリームの文化や規範を軽蔑しているところです。 今日、それは人々にとって異質であり不和をもたらすものとして軽蔑されている。主流のものを批判的に評することが難しくなったのは何故だと思います か?あなたがレコードを出した70年代後半の時点でも、批評の「場」は高い地位にあり、パンクとポストパンク・カルチャーの大部分を占めていました。 それが今では、傲慢またはナルシスティック的な空間だとみなされている。

皮肉なことだ。60~70年代のユースカルチャーは、とても尊大かつ独善的でエリート主義だった。当時は子供たちが正しく、大人たちが間違っていると考 えられてきた。それは一つの宗教的な狂信だった。カウンターカルチャーの中にすべての答えがあると本気で思い込んでいた。皮肉なのはこれらを考え出した子 供たちも今では60代だ。当時の批評に対峙するものと思われてきたものも、今ではポピュラー・カルチャーの一部だ。カウンターカルチャーは自らが批判して いた「普通の人々」に吸収されてしまった。ベビーブーム世代が滑稽に見られるのはこうした事実があるからだ。だが、彼らのような世代が生まれた理由もわか る。誰かを指さし「コイツは平凡でつまらない、ワタシはクールで時代の先を行っている」と声を上げることはいつの時代でも必要だ。これは人間性を構築する 要素の一つだ。

私が知るとある家族では一家全員が人道主義的活動に従事していて、アフリカの子供たちを救おうとあらゆる仕事に励む。彼らは自分たちが世界を救っていると 思っている。自分たちの家族には嘘をついたり陰口を叩いたりする一方、良い人間であるためにそれを続けている。彼らが良き人間であるわけがない。むしろ最 悪の例だ。それでも彼らは自分たちが世界のために良いことをしていると思っているため、誇らしくなれる。彼らは家族よりもアフリカの人を親切にする方が良 いことだと考えている。彼らは家族よりも路上の貧しい人々に優しい。

そうした人々は信頼に値しないと思いますか?

ほとんどがそうだと思っている。とはいえ、本物とは何かと尋ねられると答えにくいのも確かだ。パンクの時代には「偽物ばかりだが、俺こそが真のパンク ロッカーだ、俺こそがリアルだ」と言う者がいた。多くのカルチャーでは「本物」であることに高い価値が与えられる。私が出会ってきた本物とは、アント ン・ラヴェイやタイニー・ティムのような人たちだ。しかし「自分こそが本物だ」と誇示する者のほとんどは、そう思えない。それほど多 くの人に出会ったことはないけど、過去に目にしてきた者のほとんどは本物ではなかった。

本物の定義とは、それになる方法とは?

どんなものであれ、自分自身に忠実であること。我々はクソ野郎になりながら本物になれる。素晴らしい人物でありながら本物になれる。本物であることを考 えすぎるとイライラして自意識過剰になる。そうなったら本物とは言えない(笑)。   

ダンスのようなものでしょうか。意識したら余計に動作がぎこちなくなってしまう。

そうだな、ダンスやボウリングのようなものだろう。

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