あっという間に2024年が終わってしまった

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今年は忙しかったのであまりサイトの更新ができなかった。その日暮らしなので年末年始というくくり方もないに等しいのだが、雑誌を年2回刊にしたせいで、月日の流れに多少は敏感になった。音楽関連の調べごともさして進まず、資料だけ買っては積んでの繰り返しだった。収納スペースもなく、ワンルーム暮らしには無茶な生き方をしている。
資料を買えるだけの余裕が出た(困ったらたいてい図書館または安価なKindleなので)ということからも、例年よりは経済難を凌げた1年だった。ア●ムを完済できたのは大きかった。これがグレーゾーン撤廃前のワイ●ドやア●フルだったらと思うとこうはいかなった。とにかく協力してくれた作家や購入者様がたに感謝する一年だった。

そんな理由でSNSもほぼログインしていない。テレビも新聞も見なくなって10年以上経ってるため、世間の動向には鈍感なままである。芸能人のゴシップは論外として、ユーラシア情勢も積極的にニュースを見るには抵抗が起きるほど酷いため、防衛反応的に今のような暮らしに拍車がかかる。よって人との縁も生まれづらく、続きにくいのだが、逆に逃避するようにこちらを訪れてもらえればいいと考えるようになった。そのためにはこういう場所が必要なのだ。これはTwitterがだめならblueskyだとかいろいろいって、結局アカウントを作ったまま放置するような悪循環への拒否でもある。自分が客でないと知りつつそのサービスに依存するよりは、課金してる人の方が潔いと思うのだがどうだろうか。また金に困ったらお前も宣伝のために頻用するんだろうという声が聞こえてきそうだが、なにも全員がホームページを作れといっているわけではない(作れとは思うが)。テントを張るように、場所を確保することを意識した方が生きやすくなる気がするというだけである。

今年は暇さえあればスヴェトラーナ・ボイム『The Future of Nostalgia』を読んでいたのだが、インターネット上(この本の語彙でいえばサイバースペース)のコミュニティの問題、上で述べてたような事柄は20世紀末の時点でたいてい予見されていたと思える。ボイムやポール・ヴィリリオのような人たちが慧眼といえば、それはそうなのだが、一般的な感覚になった現状の前ではその指摘自体はもう役目を終えている。既製のノスタルジー(懐古趣味的なリバイバル商品とか)があふれる代わりに、過去そのものを探求し批判的に考える機会が失われている、という意見も文字におこせば安っぽく聞こえるが、一方ではわたし自身が退行的傾向を進んで生きてきたために根底から否定できないままでいる。むしろ退行的なことを否定するしないの話は重要ではない。何より大切なのは、大勢の一部、列をなす一人になることへの拒否感こそ自分のノスタルジーの構成要素ではないかということだ。5月の「あなたの聴かない世界」出演時にアントン・ラヴェイらの話をしたときも、座右の銘はNO、したくないことを拒否することですなんて幼稚に聞こえるを主張してしまったが、結局はここに行き着くのであった。往生際が悪い、あきらめが悪いといったほうがかっこがついたか。
他者と向いている方向は同じでもその列からはみ出してしまう、そんな脇道人生はボイムが本の中でオフ・モダンと呼ぶ姿勢によって正当化された感触もあり、読んでよかったと思えるゆえんでもある。食い扶持さえあれば多くの人がそうしているような気もするが、それが何より難しいから多くの人は大渦に自分から入っていくのだ。巻き込まれているだけで入っているつもりはない、という人もいるだろうが、そこはもう客観的な判断の世界であるため、(わたしも)行動で伝えていくほかないようだ。でもSNSは使いたくねえーなあーという地点に再び戻る。


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(24. 12/28)