ばねとりこ×サヨ族 Release Party at environment 0g

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腹下しに苦しんだ連休明け、なんとか快復したおかげで本公演に間に合った。ばねとりこはan Archivesから出たLPとDepth Of Decayからのカセットの、サヨ族は今年の『Childhood's In The Cloud』発売をそれぞれ記念するライヴである。オープニングのFUJI YUKI + WAMEIから、すでに今回の出演者に通底するヴォイス・パフォーマンス+具体音のループ、滞留する音の中で泳ぐような演奏(舞踏)を提示する。今夜のばねとりこの題目は妖怪つるべおとし。金属摩擦音、と書くと引っかいたり擦ったりしている簡素なものを連想するが、コイルを発信源にした自作楽器によって発される音が、ルーパーを経由したそれと重複し、響き合うことで空間を形成していく。妖怪というイメージを音で表すことは、妖怪が出る場を作り出すこととも換言できるが、音のみでそれを実現せしめるのがばねとりこの特色であると思う。冥丁や氏にインスパイアされた海外のアーティストたちは、江戸の浮世絵などをジャケットに採用することで自身の世界観を強固なものとし、視覚と聴覚の二つでタイムワープを果たそうとしているように見受けられるが、ばねとりこの場合はあくまで妖怪という異なる存在、そこが生まれる・寄る場を展開している。それは視覚的な入り口を必要とせず、演者ないし聴き手が直感するものなのだ・・・と演奏を目にするたび思う。
サヨ族の全身音楽的演奏と相性がよいと感じる理由もこれだろう。演奏の終わりにはよんじゅさんによる弾き語りが挿入された。断片的で具体的なストーリーラインを持たぬ童謡風の詩と語りは、アルバムの趣旨にピッタリである。先日さぼてん堂で見た時にも思ったが、弾き語りがどんどん似合うようになってきた。ラストのばねとりことのセッションは、かけ合いのように音と動作が合ったり、合わなかったりする。即興という固い言葉をかけるのは、やはりというべきか、ためらわれる。サヨ族の天然さのおかげだろう。

わたしが幼少時の頃から妖怪の絵、石燕をベースにした水木しげるのそれに馴染んでいたことも多少は手伝っていると思われるが、ばねとりこ及びサヨ族の演奏には音に対する原初的な態度というものを自らのうちから探らせる力がある。



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(24. 10/1)